見出し画像

あっぱれ!細川宣伝社 第5話

【第5話】

 木曜の夕方。
 父さんとケンちゃんと、最寄り駅の近くにあるコーヒーショップで待ち合わせた。先日の反省会の続き、チラシ配りの作戦会議だ。
 ケンちゃんが先に来て席を確保してくれていた。傍らにサックスケースが置いてある。
 レジでココアを購入してから席に着く。
「ケンちゃん早かったね」
「バイトが早く終わったから」
 耳からイヤホンを抜くケンちゃんを見て、疑問が浮かんだ。
「そういえば、バイトって何やってるの?」
「スタジオミュージシャン。アーティストがCD作るときにサックスパートを手伝ったりとか。頼まれたら演奏しに行く。まぁ、チンドン屋と同じようなもんさ」
 音楽関係のバイトって、スタジオミュージシャンだったのか。
 どんなアーティストの曲作りに参加してきたのか聞くと、誰もが知っているような有名人ばかりだった。
 唖然とする僕に「言ってなかったっけ?」と逆に質問するように言ったあと、ケンちゃんが軽く髪をかきあげた。スタジオミュージシャンと聞いて、何気ない仕草も妙にキザっぽく見えてしまう。
 それにしてスタジオミューもジシャンとは……。半年も一緒にやってきたのに、全然知らなかった。どうりで上手いはずだ。
 でも、そんな腕があるのに、なんでチンドン屋なんかやってるんだろう。
 聞いてみると、ケンちゃんが少し真面目な顔つきになった。
「人と触れ合えるから。ネットでしか生きられない奴もいるっていう今の時代、好きな音楽を通して人と触れ合えるってよくね? 顔も見えない相手とSNSで繋がるとかいうの、オレ、ダメなんだ」
「それ、わかる気がする」チンドンをやっていて、僕もそう感じることがある。
 お世辞でも褒められれば嬉しいし、拍手をしてもらえば気持ちがいい。二枚目のマックカードをもらえなくても続けているのは、そうした心持ちによるところが大きい。
「お待たせ」
 会社帰りの父さんが、スーツ姿でコーヒーのお盆を持ってきた。
 席につくなり「もらうつもりもなかったんだけど、途中で渡されて。しかも二個いっぺんに」と、ポケットティッシュをテーブルに二つ置いた。新しくオープンするマッサージ店の宣伝のようだ。中の紙に、初回半額と印刷されている。
 それを見て、ケンちゃんがズボンのポケットに手を突っ込んだ。取り出したのはポケットティッシュ。父さんがもらってきたやつと、同じものだ。
 そういえば、ここに来る道すがら、僕もティッシュをもらっていた。まさかと思いつつ、お尻のポケットから取り出すと、やっぱり同じもの。
「僕もだ。マッサージなんて行かないのに、なんとなく手渡されて」
「オレも。普段は断ってるんだけど、今日はなんでだろう」
 三人で、おのおのが取り出したティッシュを眺める。
 少しして父さんが、ティッシュの話はここまでというふうに「パン」と手を叩いた。
「明後日の作戦立てないとな。どうやったら残りのチラシを捌けるか」
 そうだ。土曜日に、三百枚を配り切らないといけないのだ。前回配ったのは百枚きり。その三倍を配るのは至難の業だ。
「もっとフレンドリーに笑顔で渡したらいいんじゃないか。悠太は表情が硬いんだよ」
「それも大事ですけど、タイミングも重要っすよね。歩いてる人に渡すんだから」
 父さんとケンちゃんがアイデアを出し合うものの、良い案がなかなか出てこない。
 当事者である僕も頭を捻る。考えていたら、テーブルのポケットティッシュが何気なく目に入った。僕らがティッシュを渡されたように、通る人通る人にチラシを受け取ってもらえたら、どんなにいいだろう。そのコツさえわかれば……うん? コツ?
 それだ!
「配るコツを聞けばいいじゃん! いますぐ行ってみようよ!」
 勢いよく立ち上がった僕を見て、二人が呆気に取られている。何を言っているのか、わかっていないらしい。慌ててたりなかった言葉をつけたした。
「ティッシュ配りの人に聞くんだよ。どうやって配っているか」
「悠、それナイスアイデア!」
 ケンちゃんが、パチンと指を鳴らした。
「どういうことだ?」
 父さんが、僕とケンちゃんを交互に見る。
「とにもかくにも、ティッシュをもらったところに急ごう」
 立ったまま、ぬるくなったココアを口に流し込む。ケンちゃんも空になったカップを持って立ち上がり、反対の手でサックスケースを掴んだ。
 事態が飲み込めていないらしい父さんは、椅子を引いた状態で中腰のままアタフタしている。
「なんだかわかんないけど、パパ、コーヒーまだ一口も飲んでないんだぞ」
 もったいないとばかりにイッキにコーヒーを口に含んだ父さんは、「アチッ」と短い声をあげ、手をヒラヒラさせて唇を扇いだ。
 ティッシュをもらった場所は、店から五十メートルほど行った交差点。帰宅時間というのもあって、歩道にはサラリーマンが溢れている。人波をかき分けて夢中で走った。
 父さんがコーヒーショップに着いてから十分と経っていない。まだ、居るはずだ。居てほしい。居てくれないと困る。
「あれ、でも……」走りながら、ティッシュ配りの顔を覚えていないことに気がついた。男だったか、女の人だったかも思い出せない。でも、行けばわかるだろう。目印は、マッサージ店のティッシュだ。
 息を切らしながら交差点に辿り着く。ティッシュ配りがいる気配は、ない。もう引き上げてしまったのだろうか。両手を膝にあて、呼吸を整えながら辺りを見渡した。
 すると、交差点の角にあるラーメン屋の影から、サラリーマンがひとり出てきた。手にはあのマッサージ店のポケットティッシュ。続いて歩いてきた女子高生も、同じティッシュを持っている。
 良かった、まだ配っているようだ。
 角を曲がると、左手にカゴを下げた男の人が目に飛び込んできた。中にはティッシュがどっさりある。驚いたのはそこからだ。カゴの中身が、どんどん減っていくのだ。
 見れば、ティッシュを差し出された全員が、断ることなくそのまま受け取っていた。
 まさに百発百中。
「名人芸だな。たしかに、あんなふうにチラシが捌けるといいよな」
 背後で父さんが呟いた。ようやく事態が飲み込めたらしい。
「ばれないように隠れて観察しよう」
 父さんがゆっくり後ずさる。僕とケンちゃんも同じように角を少し戻り、みんなでラーメン屋の影に隠れた。ドキドキしてきた。なんだか探偵になった気分だ。
 父さんが名人と称したティッシュ配りは、二十代らしき茶髪の男性。Tシャツにジーンズ、足元はブーツだ。耳にはピアスを何個もしていた。表情まではわからないけど、それほど愛想よくしているわけでもなさそうだ。
 近くに別のティッシュ配りもいるけれど、そちらは渡せたり渡せなかったり。違いはどこにあるのだろう。
 しばらく見比べていて、気がついた。
 動きが全然違う。右手でティッシュを渡している名人は、差し出すとき、腰を落として片方の足を大きく前に出していた。向かって左側を歩いてくる人に対しては、右足を左斜め前方に出して足をクロスさせている。そこから歩く人のスピードに合わせ、上半身を捻るのだ。向かって右側を歩いてくる人には、その反対。流れるような動きには、まるで無駄がない。
 すれ違う人たちは、名人の顔を見ないまま自然なカタチでティッシュを受け取っていた。僕もそうだった。名人の顔を覚えていなかったのが、なによりの証拠だ。
 でも、どうしてあの渡し方だと、すんなり受け取ってもらえるのだろう。
 そうだ! 実際にもらってみればいいんだ。
「スゲー」とか「大したもんだ」とか、名人芸に舌を巻いている父さんとケンちゃんに「ちょっと確認してくる」と言い残し、僕はラーメン屋の角から飛び出した。
 何食わぬ顔で名人に向かって歩いていく。
 あと五メートル。三メートル、二メートル、一メートルに迫ったところで、名人が足をクロスさせティッシュを差し出してきた。同時に名人の声も耳に滑り込んでくる。
「新規オープンのマッサージ店、よろしくお願いしまぁす」
 風貌に似合わない高い声。その声に意表を突かれたときだった。
 名人の体が捻じれるようについてきて、ティッシュが僕の手元にクイっと差し出されたのだ。僕は考える間もなくソレを受け取っていた。そこにあるから取ってしまった、という具合。
 これだ! 高めの声で相手の気を引き、すかさずティッシュを渡す。
 ラーメン屋の角から覗いていた父さんとケンちゃんに、指でオーケーサインを送ってから、僕は名人の背中に頭を下げた。

 家に帰ると一目散で部屋に駆け込み、忘れないうちに名人の動きをノートにまとめた。
 高めの声でちょっと驚かせ、ティッシュを相手の手元に素早く差し出す。渡すときは、腰を落とした姿勢で、足をクロスさせて前に出し、相手の歩く速さに合わせて体を捻る、と。
 早速、その場でやってみる。姿勢を低くし、右足と左足を交互に試した。だけど何度やっても、どうにも足元がおぼつかない。バランスがうまくとれず、酔っ払いみたいな歩き方になってしまうのだ。
 うん? 酔っ払いみたいな歩き方? それって……千鳥足?
 まさかと思いながらリビングに行って、パソコンを開いた。動画サイトで千鳥の曲を再生しながら、名人の動きを真似してみる。
 何度か足をクロスさせていくうちに鳥肌が立ってきた。ひいお爺ちゃん、ヤバイ。
 高い声で、腰を低くし、千鳥足でチラシを配る。
 間違いない。
『声高く腰は低めのチドリ足』は口上の奥義ではなく、チラシ配りの奥義だ。
「何やってんだ?」
 スーツからスウェットに着替えた父さんがやってきた。これは格好の実験台。テーブルにあった折り込みチラシを手に取り、近づいてくる父さんに奥義を試す。
 完璧だった。信じられないほどスムーズにできてしまったのだ。千鳥のメロディに溶け込むように、体が自然に動いていた。
 嬉しさのあまりガッツポーズをしてしまう。拳を握りながら、またしても思わずにはいられなかった。ひいお爺ちゃん、ヤバイ。
 父さんは、チラシを持ったまま立ち尽くしている。
「だから、何やってんだ?」父さんが手にしたチラシに気づくのは、少ししてからだ。
 それにしても、ひいお爺ちゃん。酔っぱらいはご法度としながら、それを敢えて奥義にするとは……。スゴイとしか言いようがない。

 運命の土曜日がやってきた。
 この日の依頼は午後一時から午後三時まで。つまり、二時間で三百枚のチラシを配らなければならないというわけだ。
 出番の三十分前、支度を済ませた僕らは控室でスタンバイしていた。父さんは着流し姿。僕は黄色い落語家風。ケンちゃんは黒皮のジャケットとパンツに赤いスカーフだ。
 衣装は前回と同じだけれど、僕の着物にだけ細工がしてあった。丈を五センチ詰めてある。チドリ足をするとき、足が裾に引っかからないようにと母さんがやってくれたのだ。
 サックスのチューニングを済ませたケンちゃんが、千鳥のテンポを僕に確認してきた。チドリ足の奥義を解読したことは、事前に報告済みだ。
「普通の速さで大丈夫? それともゆっくりめがいい?」
「できたら、ゆっくりやってほしい」そのほうがスムーズに動けるからだ。
「なら、このくらいでどうだ?」
 ケンちゃんの演奏するスローテンポの千鳥に合わせ、動きを確認しようとしたときだった。ドアが開いて、ショッピングモールの担当者が入ってきた。
「三十分ほど早いですけど、そろそろお願いします。先週好評だったんで、少しでも早く出てもらったほうがいいかと思いまして」
 父さんが僕の顔を見た。「ぶっつけ本番で大丈夫か」と不安げな眼差し。
 僕は黙って頷いた。昨日もミッチリ練習したのだ。大丈夫。自分で確認してから、もう一度さっきより大きく頷いた。
 チンドンは、吹き抜けのイベントスペースから始めることになっていた。従業員の通用口でスタンバイして、担当者の合図で客の前に出る手はず。最初は、僕もゴロスを叩くことになっている。
 扉の前で待っていたら、急に緊張が押し寄せてきた。手の平に汗をかいている。スティックを持つ右手と、バチを握る左手、両方ともだ。着物で汗を拭っていると、担当者が扉を開けた。
 いざ、勝負のとき。
 おずおずと前に進み、扉を出てすぐのところで立ち止まる。視線が注がれたのを確認して、父さんがチンドン太鼓を打ち鳴らした。
 タン・タ・タ・タン、チン・タン・チン・タン、ドン、ド・ド・ドン。
 打ち込みだ。次は僕の番。
 ドン、ドン、ドン! ゴロスの三つ打ちでチンドンの幕が上がった。
 一曲目は『タケス』。三つ打ちで一瞬静まった館内に、ケンちゃんのサックスが響いた。裏拍のリズムは体が覚えている。叩き出すタイミングさえ間違わなければ大丈夫。
 全神経をサックスの音に集中させる。
 二小節が終わって、よし、いまだ!
 チンドン太鼓とゴロスが加わり、演奏が一つになった。いつもより、いい感じ。手から離れた風船がフワフワ浮き上がるように、僕らの音が吹き抜けに舞い上がっていく。
 見上げれば、二階、三階で大勢の人が身を乗り出していた。客を引き付けている証だ。
『タケス』が終わり、いつもはここで口上だけど、今日は続けて二曲やる。子供が多いため『崖の上のポニョ』と、トトロの『さんぽ』。これは僕のアイデアだ。
 演奏が終わった途端、大きな拍手が鳴り響いた。幼い子供たちも、小さな手で一生懸命パチパチやってくれている。みんな笑顔なのが、嬉しい。
 拍手がやんだところで、父さんの口上だ。
「とざい、とーざい。やかましき鳴り物を持ちましてお騒がせしておりますのは、細川宣伝社でございます。わたくしどもこの三名、いずれもご覧の通りのいい男! 今のうちに写真をどんどん撮っておくことをお勧めします。あとあとスターになったとき、お宝になること間違いなしです。SNSにもどんどんアップして下さい。さてさて、きょうの入学セールは買わなきゃ損をするほどお買い得……」
 回を重ねるごとに、父さんの口上は上達していた。写真を撮るよう促すと一斉にスマホを向けられるのだ。ただ喋るだけでは、こうはいかない。少なくとも、同じセリフを言っても、前はこんなふうにはならなかった。
 口上のあと『軍艦マーチ』の演奏に入ったら、それがチラシ配りの合図だ。
 もう一度、配る手順を確認する。
 まず、目の前にできた人だかりに割って入る。奥義を繰り出すのは、そのあとでいい。というのも、チンドンを見るために足を止めてくれた人には、比較的チラシを渡しやすいからだ。少ない経験からそれを学んでいた。
「絶対に三百枚捌き切ってやる」
 左手に抱えたチラシの束を、右手でポンと叩いて気合を入れた。
 サックスの音が出た。聴き慣れた『軍艦マーチ』が、いつもより勇ましく感じる。僕を応援してくれているようだ。
 選べるなら渡す相手は六十代以上。おじいちゃんおばあちゃんの世代だ。偶然にも今日は、その年齢層が多い。チラシを差し出すと、案の定、孫に注ぐような優しい眼差しを僕に向けながら受け取ってくれた。
 三十枚ほど配ったところで、集まっていた人たちが徐々に少なくなってきた。もちろんそれも織り込み済み。ここからが勝負だ。チラシ配りの奥義を使うときが、遂にきた。残り二百七十枚。
 イベントスペースのすぐそばの正面入口に移動して、店に入ってくる客を待ち受ける。その場でティッシュ配りの名人の動きをおさらいしながら、改めて自分に言い聞かせた。
『声高く腰は低めのチドリ足』
 ケンちゃんが、僕と父さんに目配せしてから『千鳥』を演奏し始める。ゆったりとしたテンポ。お願いした通りだ。
 奥義をやるにあたってケンちゃんに頼んでいたことが、もうひとつあった。千鳥を十五分ほど繰り返してほしいとお願いしたのだ。
 息を吐いて音を奏でる管楽器を十五分間ぶっ続けでやる。それがどれほどキツイか、わかっているつもりだ。それを承知で手を合わせると、ケンちゃんは何も言わず親指を突き出してきた。首にさがった赤いマフラーが、ヒーローのそれに見えた。
 なので、今から十五分間ノンストップだ。
 千鳥が羽を広げて飛び立つように、ケンちゃんの演奏にのって僕はお客さんに向かっていった。
 一人目のターゲットは、僕の左側をすり抜けようとする四十代と思しき女性。徐々に距離が縮まってくる。腰を沈めた姿勢で待ち構え、相手との距離が一メートルになったところで右足を左前方に。そのまま女性の歩くスピードに合わせて体を捻りながら「入学セールお願いしまぁす」とちょっと高めの声を出し、相手の手元にクイっとチラシを差し出した。
 その瞬間、右手のチラシがスーッと引き抜かれた。手から消えるようになくなった。
 ひいお爺ちゃん、ヤバすぎ。
 同じ要領で、二人目。小さな子供の手を引くお母さんにやってみると、またもスーッとチラシが抜かれた。
 今度は、二人連れの女性だ。体を捻りながら「お願いしまぁす」と一枚渡し、そのまま左手の束からもう一枚素早く抜き取り「お願いしまぁす」とクイっと差し出す。最後は、殆ど後ろ向きの体勢だったけど、なんとか受け取ってもらえた。
 そこから、面白いようにチラシがはけていく。
 配りながら気づいたことがあった。腰を下げるのは、てっきり相手にへりくだるという意味だと思っていたけど、それとは別の理由もあるようだ。体を捻り切ったあと、腰を沈めておくことで、もうひと伸びできるのだ。最後の最後まで粘って渡せるというわけだ。
 場所と曲を変えながら配り続け、時刻は午後二時半。昼過ぎからお客さんが増えたことも手伝い、三時を待たずに三百枚を捌ききった。
 ノルマを達成したあとは、演奏に全力を注いだ。チンドンの曲に加え、昭和歌謡や童謡を披露していく。
『青い山脈』の演奏中、車椅子で涙を流すお婆ちゃんの姿が目に入った。演奏が終わると、お婆ちゃんのそばにいた年配の女性が、小走りで駆け寄ってきた。
「いま聴かせてもらってたんですけど、九十歳の母がとても喜びまして。ありがとうございます。亡くなった父との思い出の曲で、よく一緒に歌っていたそうです」
 どうやら娘さんのようだ。娘さんによれば、家に籠りがちだった母親を久しぶりに外に連れ出したら、偶然僕らに出くわしたという。
 話を聞きながら、見れば車椅子のお婆ちゃんが手を合わせ、僕らにお辞儀をしている。
 チンドンの演奏で、こんなふうに喜んでもらえるなんて。
 胸が熱くなり、鼻の奥がツンとなった。こっちがお礼を言いたいくらいだ。
 すると父さんが、ゆっくりと車椅子のほうに歩いて行った。お婆ちゃんの前でしゃがみ込み、目線を合わせる。
「聴いていただきありがとうございます。他に、なにか聴きたい曲はありますか?」
 突然話しかけられ、お婆ちゃんは目をぱちくりさせている。だけど、すぐに質問を理解したようで、しわがれた声でリクエストしてきた。
「それじゃあ、笠置シヅ子の東京ブギウギをお願いします」
「笠置シヅ子か」呟いて不安げに振り向く父さんに、ケンちゃんが「できますよ」と一言。さすがスタジオミュージシャン! ヒット曲なら、いつの時代のものでも大概吹けるようだ。
 演奏に入る前、ケンちゃんが耳打ちしてきた。
「東京ブギウギは裏拍な。たぶん、タケスよりリズムとりやすいから」
「わかった」そう答えたものの笠置シヅ子も知らなければ、『東京ブギウギ』も聴いたことがない。
 戸惑う間もなく、サックスが歌い始めた。もう、やるしかない。
『タケス』のときのように、心の中で「いち、にぃ、さん、しぃ」と数え出し、その瞬間にふと感じた。「裏拍、とりやすそう」
 思った通り、すんなり裏に入れた。どこで入るか、ちっとも迷わなかった。
『東京ブギウギ』は痛快なメロディだった。でも、どこかで聞いたことがあるような……そうだ! 朝ドラでやっていたんだ。ドラマの時代設定を考えると、たしかに車椅子のおばあちゃんと合っているかも。
 そのお婆ちゃんに目をやると、手拍子をとりながら微笑んでいる。ブギのリズムで過去の記憶が甦っているのであれば、嬉しいことこのうえない。
 いま、僕らは幸せを与えている。
 チンドンで喜んでもらっている。
 この仕事を差別する人がいるのなら、勝手に言わせておけばいい。
 深いしわを刻んだお婆ちゃんの顔を見て、僕はチンドン屋であることを誇らしく思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?