見出し画像

司馬遼太郎『三浦半島記 街道をゆく42』レビュー

司馬遼太郎『街道をゆく』の第42巻『三浦半島記』を再読,読了。先週放送された岡田准一の『新 街道をゆく』(NHK BS)を観て、思うところあって初出以来26ぶりに手に取った。あらためて言うまでもないことながら、練達の司馬遼節にうっとりとして、かつ、博覧強記と称してもまるで追いつかない、そのあまりの見識の奥深さ,幅広さに歎息するばかりの読書時間となった。
最終43巻の「濃尾参州記」は、氏の逝去により未完だから、本書が同シリーズの完成形の最後になる。掉尾を飾るのが150年続いた鎌倉時代の最期を語る「鎌倉陥つ」という章題であるのも一入の感慨を胸内に漂わせる。横須賀を巡るくだりでは、話題が近世近代に及び、『竜馬が行く』や『坂の上の雲』が通奏低音のように響き始め、一段と情緒を深める。60歳を過ぎて縁を得た鎌倉市役所に30年近く前、司馬遼太郎が立ち寄っていたのかと、その在りし日の様子を思い描くだけでも心浮き立ち、いま携わっている責務に関わる地を磯子に投宿されながら踏破し、敬慕するばかりの学識、関心興味を、それぞれの地ごとに惜しげもなく披瀝され開陳される一文一文が愛おしくてならない。これこそ読書の醍醐味、愛着と心底実感し、欣喜雀躍たる思いに酔い痴れるばかりなのである。
初読では、ここまでの感動,感涙はなかった、ように思う、というか、今やどう受け止めたのか思い出せない。読書百遍。好著は何度も読めるし、知見経験が重なれば、自ずから同じ書でも感想は異なること当然だろう。初代の須田剋太没後桑野博利から襷を引き繋いだ安野光雅画伯の挿画も嬉しい。尊崇するおふたりが、確かにここをあそこを歩き,描いたのか。かくも無上の喜びがあるだろうか。この3年、職責もあって集中的に読み重ねている鎌倉関係書籍通読にあって、再読とはいえ、最上位の一角を間違いなく占める一冊との再会である。
終盤に進み横須賀について語りはじめたすぐのところに「帝政ロシアおよびその後のソ連が、近隣の国々に恐怖という感情をもたせつづけてきたことを忘れては,世界史も日本史も理解できない」、「ロシアの領土拡大に、動機などはなかった。無目的自己増殖を遂げている何かの生物に似ていた」とあるのには、思わず胸衝かれ、怜悧明晰な司馬遼太郎の歴史観の普遍性を深々と体感させられたことだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?