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中澤雄大『狂伝 佐藤泰志 無垢と修羅』(中央公論新社)レビュー

毎日新聞の政治記者、のちに文化記者として優れた手腕を発揮し、現在ノンフィクション作家の肩書で活動する中澤雄大氏の渾身の大著『狂伝 佐藤泰志 無垢と修羅』読了。同書を熟読するに先立ち、佐藤泰志の作品集、文庫本、5本の映画化作品を鑑賞吟味し、自分なりの佐藤泰志像を構築し、襟を正して中澤氏の、職を辞し「退路を絶って」(同書あとがき)書き上げ上梓された裂帛の大冊に対峙した。
同書は、早世した作家佐藤泰志の、広範な取材と遺された私信やメモ等とを踏まえた堅牢無比な評伝だが、それと同時に、いやむしろそれ以上に執筆者中澤雄大氏自身の魂の迸りを受け止め歎息せずにはいられない熱量漲る一冊である。それゆえに、作家と筆者とがさまざまに交錯重複し、一大精神史とさえ称したくなる内実を体感させられ陶然としたことだった。
なかでも佐藤泰志の盗作疑惑を晴らさんとすべく緻密な検証を推し進める章に象徴される筆者の一作家への愛情の深さは並々ならぬものであって、他の章にひかれ紹介される作家の父母から私信を読んで胸内に拡がる愛情の深さと等しいものが自分自身のうちに湧出し、それを誘引した一語一語に深く心打たれた。そしてその感動は、先立って享受した佐藤泰志の作品以上のものだった。

それにしても中澤氏の堅固な取材により明らかとなる佐藤泰志の、なんと自堕落極まりない短命な作家人生だったことだろう。結果的には芥川賞に拘泥しすぎであった。しかも、短絡的な言い方になるが、その執着心が作家の精神を打擲しつづけ死を早まらせた。中澤氏が同書で提示した諸要素から、個人的にはそう受け止めた。芥川賞か三島賞いずれかを手にして鎌倉や藤沢,茅ヶ崎いずれかへの転居が実現していれば作家の疲れた心は癒され、別次元の展開も可能だったのかも知れないが、それ以前に、作家はもっと自らを道義的に律するべきだった。中澤氏の筆で精緻に紐解かれた早世作家の総体を鞭打つつもりはないが、破綻なくして作品世界が成立しないのだとするなら、事ほどさような文学世界は不要。所謂私小説、いやもっと言うなら太宰治ひとりあれば十分である、と個人的には思う。そして本書で明らかにされた新人作家への態度を通して、江藤淳、大江健三郎、開高健、安岡章太郎、中上健次ら、いまや文学史そのものとなっている余人をもって変え難い先達の重さをあらためて痛感した。

かかる評は、筆者には本意でないだろう。しかしながら、600頁を超える大冊に横溢するひとりの作家への愛情、哀惜は、紛れもなく筆者の人格総体の投影となって読む者に浸潤し、深い感動をもたらしている。それをもって個人的には全く新たな作家評伝と評したいのである。これは、おそらく永年にわたり社会に生起する諸現象と真摯に向き合い、所与の責務に誠実でありつづけた筆者だからこそたどり着き得た達成なのだろう。より多くの読書子の眼光紙背に徹するを乞う。


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