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『鎌倉物語 第九話:日本一の学校で待ち受けていた挫折』

憧れて入ったK中学、僕は居場所を失い泣いた

 1991年の4月は風の強い日が続いた。そんな春一番が強烈に吹く頃、待ちに待った入学式当日をむかえ、僕は兄と一緒に胸を躍らせて念願のK中学へ登校した。クラスは1年1組。新しい生活の場、新しい友達。一日中浮足立って、その日は終わった。
 Kの新入生は入学した次の日から、K校最大のイベントである「運動会」を経験する。「K校の1年は運動会のためにある」という人もいるほど、伝統ある崇高な行事で、中1が「伝統ある男子校」の洗礼を浴びるイベントでもあった。最高学年である高3が引っ張るかたちで、生徒たちだけで全学年が一緒になって作り上げていく運動会の魅力、刺激、おもしろさに、僕は魅了された。K高校を卒業して四半世紀が過ぎた今も「Kに入ってよかった」と思う最大の要因は、この運動会を体験できたことにあると言っても過言ではない。

 5月に記念すべきの最初の運動会が終わり、夏が近づく6月になると僕たち1年生はどの部活に入るか決めることになる。受験のために小5でやめたサッカーを続けるのを楽しみにしていた僕は、迷うことなくサッカー部の入部手続きをした。その後、練習にも顔を出したのだが、ほどなくしてサボって行かなくなった。「小5で辞めたサッカークラブの続き」をやりたかった僕にとって「楽しむ」より「厳しく練習」という雰囲気のサッカー部はなじめなかった。そんな「楽しめない部活」に、毎日片道1時間以上かける通う中、放課後の時間をとられてしまうのも嫌だった。
 好きなことをしたい気持ち、遊びたい気持ちを3年近く我慢してようやく入った中学生活で、また自由を奪われたくなかった…と、振り返るともっともらしい理由がいろいろと見つかる。もちろん、どれも本当だとは思うが、今になって思えばきっかけはもっと些細なことだった気もする。入学後、仲良くなった友達や先輩の中に一人もサッカーに興味がある人がいなかったのも大きかったし、サッカー部の顧問の先生とのちょっとした言葉のすれ違いも、部活から足が遠のくきっかけだった。しばらくはサッカー部に籍はあったが、僕はいわゆる「帰宅部員」になった。
 あれから30年、サッカーが大好きなのは今でも変わらない。アラフォーでオヤジサッカークラブに入部し、今でもフルコートのサッカーを楽しんでいる。なんでサッカー部を続けなかったんだろうと、今になって思う。 
 夏休みになると、近所の公園に行き一人でボールを蹴り、ドリブルの練習などしてたが『スラムダンク』のみっちーのような心境には卒業までならなかった。

 ちょうどサッカー部に顔を出さなくなった中1の冬。冬休みが明けた三学期の始業式翌日から、仲の良かった友達全員から突然シカトされるようになった。それは本当に突然の出来事で、最初は何が起きているのかよくわからなかった。冬休みが終わり、いつものように通勤ラッシュの常磐線に長時間揺られて登校した朝、友達に挨拶して話かけるが、まともな返事が返ってこず「あぁ」という感じで横を向かれてしまう。「なんだよ、考えごとでもしてるのか」と思い気に留めなかったが、一限目が終わって別の友達に話しかけても、同じような反応。そそくさと僕の近くから立ち去ってしまう。他の友達に話かけても同じような反応がくるのがその日中続き、何かが起きていることに気づいた。

 次の日、昨日のことは僕の勘違いなんじゃないか? 今日は今までと同じように笑い合える仲に戻っているさと、淡い期待をもって登校するが、昨日と状況は変わることなく、それはしばらく続いた。
 部活に入っていなかったこともあり、授業が終わると誰とも話をせず、遊ぶ相手もいないので一人で帰宅。家に帰っても誰もいないことが多く、夕方4時枠で流れていた『ルパン三世』の再放送を見たり、兄貴の部屋から当時流行っていた〝ロックバンドX〟のアルバム『Bule Blood』『Jealousy』を勝手に借りては、繰り返し無限ループで聴き、気を紛らわしていた。
 「今日は誰かが話しかけてきてくれたらいいなぁ」と期待して登校し、そのたびに裏切られる。そんな日が続いた。人一倍気が強かった僕は、しばらくは平気な顔をしてた。だが、家でもだんだんと言葉数が減っていく僕の異変に気づいた母親から、何があったかを聞かれたが、うまく答えることができなかった。
 1ヵ月経っても状況は変わらず、朝起きて鏡の前に立っても笑顔を作ることができなくなり、泣いた。

 僕は小さい時から自我がわりとはっきりあり、自己主張をしっかりとする子供だった。そんな僕の態度を母は時に強くいさめることもあったが、ちゃんと自分の意見を主張できる姿勢をどこか奨励するところもあった。
 身体も同年代の友達に比べると大きめでケンカっ早く、勉強も他のコよりも数段できた僕は、幼稚園、小学校とガキ大将で通した。
 同級生から「怖い」「一緒に遊びたくない」という声がたびたび母のもとに届く。そのたびに母からこっぴどく怒られ、悲しい気持ちになり、反省して周囲に優しくなろうとする。だが、それも喉元をすぎると熱さを忘れてガキ大将に早戻り。そんなことが小学校の時は何度も繰り返された。
 学年が進み自己主張をはっきりする奴も増えてきて、対等な感じの「友達」も数人はいたが、田舎の小学校でダントツに勉強ができ、どんな奴との喧嘩も平気だった僕は「周囲より偉そう」というのがデフォルトだった。小学校を卒業するまでクラスの男子半分は僕のグループで、僕との関係性は対等ではなく、親分-子分という感じだった。

 物心ついたときから染み付いていたそんな立ち振る舞いは、K中学に入ってからも続いていた。ワガママを押し通したつもりはなかったが、他人から見れば「偉そう」だったのだろう。自分では中学で新しくできた仲間と、おもしろおかしく盛り上がってるつもりだった。しかし、日本有数の進学校に集まってきた奴らにとって、勉強が格段にできるわけでもなく、部活にも入らずにふざけてる僕の姿に、友人たちはしだいに違和感を覚え、ある時「あいつ、シカトしようぜ」にたどり着いたのではないかと想像する。

 中1の冬に急に友達を失ってしまった僕は、ほどなくしてそれまで仲良くしてこなかった、どちらかというと物静かな、文化系の部活動に所属し、授業をしっかり受けるようなクラスメイトたちと話すようになっていった。彼らが普通に応対してくれることが嬉しかったし、何より心が救われた。昔からおもしろいことや目立つことが大好きで、ノリが良いやつらと盛り上がるのが何よりも楽しいと思っていたが、特にみずから盛り上がろうとも、盛り上げようともしない。真面目に好き嫌いを言わず、僕のような人間でも受け入れられる。そんな人たちが持っている「自然な優しさ」に初めて触れたことで、人付き合いの幅が広がった。
 また、寂しさや孤独というもののつらさを実際に味わうことで、それに堪えられない弱い自分がいることにも気づいた。シカトは半年くらい続いた後、しだいになくなり、友人との関係も元に戻っていったが、この出来事は「親しい関係、近しい関係にある相手でも、自分のことを本当はどう思っているんだろう?」と気にする、そんな一面を僕の中に作った。

出口のない苛立ちというアイデンティティ

 希望に満ちた中学生活とはほど遠い1年を過ごした後、中学2年生の夏ぐらいから、僕は重度の反抗期に陥った。
 幼稚園から小学校まで、僕のアイデンティティは「地域で一番勉強ができるガキ大将」というものだった。だが、K中学に入ると世の中には自分よりも勉強ができる奴がいくらでもいるということを否が応でも思い知った。入学当初こそ偉そうにしていた僕だったが、シカトされたことでガキ大将でもなくなった。部活にも入っていないから、自分の居場所がはっきりしない。
 急速に色あせていく日常は「あれだけがんばって中学受験をしたのに何も良いことがないじゃないか!」「何のために、わざわざこんな遠くの学校に通ってるんだ?」「親の〝良い学校に子供を通わせてる〟という自尊心を満たすためだけに、入れられただけじゃないのか?」と僕をアングリー思考のスパイラルに陥れるのに十分だった。

 今、振り返るとあまりに自分勝手な頭と心の構造に呆れるほかないが、反抗期特有の現象で親への逆恨みは日に日に増幅していったし、部活に汗を流し充実した学校生活をおくる同級生たちにもどす黒い感情がうごめいた。

 自分を取り巻く環境への苛立ちが常に渦巻いている状態が続くと「怒っている」「イラついている俺」が新たなアイデンティティになっていった。そしていったん厄介なスイッチが入ってしまった僕は、何を見聞きしても苛立ちが湧きたってくるようになる。顔を合わせれば喧嘩というぐらいに母親との衝突は増え、お互い堪えられないような状況に何度も陥った。
 K中学への不満が家で爆発する僕を見て、母はたまらず「だからO中等部に行った方が良いって言ったじゃない!」というような言葉をぶつけてくることもあった。何か悪いコトがおきたときに人は自然とその原因を探してしまう。彼女からしたら、僕の性格に合っているのはK中学よりもO中等部で、それは今思うと当たっている気がする。ただ、荒ぶる思春期の魂をおさえきれない僕にそういった変えることのできない過去の事実をぶつけるのは、むしろ逆効果だった。判断能力のなかった自分への怒りはあったものの、それ以上にK中学をめざすように仕向けた親への憎しみにも近いような思いがわき上がり、なんとも言い難い気持ちで苛立ちばかりが増幅していった。

 関係が悪化したのは母親だけじゃなかった。もともと接点の少なかった父親との会話は反抗期にはいってさらに減り、ほぼなくなった。このころ何があったのかは知らないが、明るい性格だったはずの父は、人が変わったように不機嫌な性格に変わってしまったのもあり、夜中にたまたま廊下で鉢合わせただけで、怒鳴り合いの喧嘩になり母親が止めに入る、といったこともあった。家庭内の雰囲気がどんどん悪くなる中、親の勧めで通っていた英語と数学の塾を辞め、それまで貯めてた小遣いでエレキギターを買った。

 葛藤、疑問、怒りの中で、思春期のかなりの時間を過ごした。ガンズ・アンド・ローゼズ、オジー・オズボーン、ジューダス・プリースト、スキッド・ロウ、リッチー・ブラックモアの奏でる音楽を聴き、彼らの訴える怒りや葛藤に触れることで「自分だけではない」と何かを確認していた。悩みや怒りがピークに達しそうになると、思いを歌詞(洋楽曲の和訳風)に書き出し納得のいく言葉にした。そうすると、気分がすーっと落ち着いた。

 常に何かに腹を立てている自分。不思議なもので、そんなアイデンティティが定着したころから、学校は少しずつ楽しい場所になっていった。授業、教師、部活動、家族…。誰でも何かしらに対する不満はあるわけで、そんな青春の苦悩を隠そうともせず、むき出しの怒りをありのまま表に出している僕のことが興味深かったり、おもしろかったりしたのだろう。しぜんと同じような葛藤を抱えた仲間が集まり、親友のような存在もできた。
 サッカー部のキャプテンだったが顧問と衝突し退部してしまったTや、部活はやっていなかったが運動神経抜群で英語の塾が同じだったMとは、毎日のようにつるみ、マックでたわいもない話で盛り上がったり、ゲーセンや女子校の文化祭に遊びに行く仲になった。

 ここで、学校の授業についてちょっと話してみる。全国有数の進学校なのだから、さぞかしユニークでおもしろい授業が行われていると想像している人も多いが、少なくとも当時のKは進学校といっても教師や授業はきわめて平凡でつまらなく、緩い雰囲気が漂っていた。
 今思えば「さすがに教える技術もっと磨いてよ。いや、そもそものやる気がなさすぎじゃない?」と思う教師もたくさんいたし、「勉強なんかやっててもろくな奴にならん」というようなことを平気で言い放つ教師もいた。だが、そんな伝統校ならではの「鷹揚(おうよう)さ」のようなもののおかげで、Kの中では勉強で目立つことのできなかった僕も「ここにいてはいけない」というところまで追いつめられることはなかった。
 「勉強が誰よりもできるガキ大将」という幼少期からの自分に別れを告げた僕は、中2の途中から高2中頃のほぼ3年間「勉強」に何か期待するということはしなくなった。ニッポン放送で『伊集院光のOh!デカナイト(22~25時)』『オールナイトニッポン(深夜1~3時)』を連続で聴いた次の日は、1時限目から5時限目までひたすら寝て、6時限目に目を覚まし、授業が終わると下校した。勉強やマジメに学校のいうことをきく同級生を敵視していたわけではないので、中間や期末試験は受けたし、親友もできて楽しくなった学校には毎日通っていたが、僕の成績順は1クラス50人の中で、40番台を推移することもあった。学校の成績でいうと、高校卒業までの6年を通して、ある程度しっかり勉強してクラスで25~30番、手を抜くと35番、中3の時のようにすべてをテスト期間中の一夜づけでやった場合は40番台という範囲を行き来した。

 部活にも入らず、勉強もろくにしなくなった僕はさまざまな「?」の中で、出口のない考えごとを繰り返した。中学に入るまで「勉強をする」ことは、僕にとっては「兄と同じ学校に行くため」「親に褒めてもらい認めてもらうため」「学校でガキ大将として君臨するため」という目的が明確にあってやったものだ。勉強をすると周りの人より良い点数がとれて気分が良いこともドライブをかけたが、「勉強そのものが楽しい」というような感覚はほとんどなく、「大好きなことを我慢して取り組まねばならない不快なもの」でもあった。
 幼少期、夢中になって本を読んだトキメキや、歴史上の英雄たちの逸話に感動した気持ちとは違って、勉強は「良い成果」を出すためにやるものだった。だから「やっても成果がでない」という現実を目の当たりにしたときに、勉強をやる理由が純粋に見出せなくなり、やる気スイッチがどうしても入らなかった。自分自身が勉強から気持ちが離れていく中で、おもしろくもない授業を真面目に受けつづけられる奴らがたくさんいる、ということも不思議だった。小学生のころは地域で1番勉強ができた子たちが集まるKでは、そのほとんどが真面目に勉強しても1番にはなれない。当然だ。他では1番でも1番が300人集まれば、300位の人もいる。なのに、なぜあんなにも勤勉に授業を受けられるのか。
 気になって、同級生に「どうして勉強するの?」「なんで東大をめざそうと思ってるの?」と何度か聞いてみたが「なるほど!」と思う理由が返ってくることはなかった。彼らは勉強自体が好きなのかな、と思うこともあった。事実そういう子たちもいた。ゲームをするような感覚で勉強をする。
 周囲と違って「理由がないとやる気にならない俺は、勉強には向いてなかったんだ…」とどこか諦めにも似た気持ちを抱いた。東大って、そういう勉強に向いてる奴が行くところなんだ、と整理された。

 また、休み時間や放課後に遊ぶときは、僕と同じようなことで笑いふざけ合ってる仲間が、部活で決められたルールに従い、黙々と機能できることも不思議だった。

「どうして自由でいたいと思わないんだろう?」
 という素朴な疑問がそこにはあり
「いや、俺はどうして周りがやれていることをできないだろう、何がやりたんだ?」
 という漠然とした不安が襲いかかってきた。

 ただ、そんな自問自答を繰り返しても、やりたいことは漠然としている。やりたいことがあったとしても、実現する方法や実力に当ては何もない。なのに、普通にそつなくこなすこともできない。学校生活はそれなりに楽しかったが、何かグルグルと同じところをまわり、目標を定められない自分に引け目を感じるようにもなっていった。