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『鎌倉物語 第八話:中学受験戦線異常あり』

物語のはじめに

 教育熱心な両親のもとに生まれた僕は、中学受験の結果、日本有数の進学校であるK中学に入学。エスカレーターの同高校を経て、一橋大学に入学、2002年に卒業した。みんなは僕のことをHIROと呼ぶ。英雄(HERO)のように生きなさい、という母の教育とどこかリンクしているのが、今では少しくすぐったい真実だ。

僕の父と母

 両親はともに関西出身。橋本徹などを輩出したことで知られる進学高の同級生だ。父には兄がいて、兄弟そろって東京大学卒だが、父の家は経済的に余裕がある方ではなかったようで、祖母が深夜まで内職をしながら二人の息子を東京へ送りだした。
 父は東京で浪人生活をして東大に入ったが、浪人時代の住まいは三畳一間で、結婚前の母が父の家を訪ねたとき「あまりの狭さに驚いたと」いう話しをよく聞かされた。もちろん、今思えば父の家が特に貧しかったということではなく、日本全体が今とは比較にならないくらい貧しい時代だったのだ。一部のお金持ちをのぞいて、バナナが高級品、そんな時代だ。
 東京大学を卒業後、父は大手ディベロッパーに就職し、10年前に定年退職するまで40年勤め上げた。定年後は大学で都市づくりの講義を数年行った後、今では完全にリタイヤしている。
 仕事の話をほとんどしない父だったが、東京ディズニーランドができたときと、社会人生活終盤でのビッグプロジェクトだったであろう六本木のミッドタウンができたときだけは、ポロリとそれらの仕事に携わっていたことを教えてくれた。誰もが知っているような有名建築家と仲が良いとか、数年前ノーベル賞を受賞した日本人が友達だったとか、そんな話でも自分からしない人。近くにいながら、ちょっと遠い存在の人だったのかもしれない。
 幼少期は、キャッチボールなど子供の遊びにもよく付き合ってくれていたが、仕事が忙しくなってきたせいだろう。僕が小学校の3年生になったぐらいから、父は家にいることがほとんどなかった。そのせいか父とは夏休み、正月を除いては数えるくらいしか一緒に遊んだ記憶がない。
 昭和を生きたサラリーマンよろしく、毎週と言っていいほど土日はゴルフに興じ、コンペのトロフィーが家にたくさん飾ってあったが、歳をとってドライバ―が飛ばなくなったことが気に食わなくて、数年前にゴルフも引退してしたようだ。僕が実家を出て20年が経つが、兄の部屋は母が、僕の部屋は父が侵食して使っている。父はとにかく片付けや整理が全くできないので、僕の部屋の思い出の品は、父のものに埋もれてしまいどこに何があるのかもはやわからなくなってしまったことが腹立たしい。

 母は大学を卒業後、総合商社に入社。当時、女性では珍しかったであろう総合職で入り、兄が生まれるまではバリバリ働いてた。そのバイタリティーは子育てが終わった後も衰えることなく、70歳を超えた今でもコロナ禍に陥る前までは、インバウンドの旅行客向けに観光ガイド兼通訳をしてたほど。働いていた当時から堪能だった英語力は今でも健在だ。
 商社時代にはギリシャに数年駐在したことがあるようで、その影響なのかギリシャ神話は幼い兄と僕への「読み聞かせ」の定番。ヘラクレス、ペルセウスなどの英雄譚に僕は小さな心を躍らせていた。
 三姉妹の次女として育った母は、男子たるもの英雄たれ、というやや誇大妄想的なところがあり、ギリシャ神話以外では、牛若丸、徳川家康、孟子、ノーベルなど、日本、中国、世界の歴史上の偉人の逸話をよくしてくれた。良くも悪くも英雄教育的なところがあったのだ。
 キャリアウーマンだった母だが、兄を妊娠し出産すると家庭に入ることになる。その性格から想像するに、本人は間違いなく仕事を続けたかったと思う。でも当時の世相や、父、父方の家の意見などもあり、育児に専念せざるえなかったのだろう。その行き場のない母のエネルギーは兄と僕の受験勉強へと注がれることになる。
 兄の誕生から遅れること1年半後の暑い夏、1978年に僕は生まれた。

関西一家が関東へ

 親戚の中で一番年下だった僕は、周りから溺愛されて育った感覚が残っている。ビートルズ世代の両親は彼らの常識にとらわれない斬新な、遊び心あふれる楽曲の影響でも受けたのだろうか、子供の個性を尊重して育てようとしてくれた。学年で2つ上の兄の後ろについてまわりながら、伸び伸びと過ごせる毎日が楽しかった。母の熱心な読み聞かせの影響もあってか、兄も僕も、同い年の子どもたちよりかなり早く読み書きができるようになっていた。幼稚園では先生の代わりに僕が本を読む役をしたりしたこともあったようだ。自己主張が強く、喧嘩っ早いところもあった僕は、物心ついた時からガキ大将気質で、それは中学に入ってしばらく経つまで続いた。

 僕は4歳まで大阪のミノオというところに住んでいた。両親も親戚もみんな大阪や神戸に住んでいる関西弁一家。東京から引っ越してきたばかりの友達が、母のことを「おばさん」と呼んだときに大笑いしたのを覚えている。友達のお母さんは「おばさん」じゃなく「おばちゃん」で、「おばさん」という響きがなんとも言えず間抜けに聞こえたのだ。
 住んでいたマンションの裏にはちょっとした林があって、夏は兄と一緒に虫捕りに行った。汗を垂らしながら、虫網を振り回しセミやトンボを捕まえる兄と、それを虫かごに入れる僕。兄より年上の近所のお兄さんたちも面倒見が良く、一緒に遊んでもらうことが多かったこともあり、大阪時代は楽しかった思い出ばかりが残る。
 兄が幼稚園を卒園し小学校に上がるタイミングで、引っ越しをすることになったが、幼い僕は状況がよく理解できていなかったこともあり、寂しいという気持ちはなかったと思う。
 引っ越し先は随分遠かった。初めて乗った新幹線はすごく混んでいて、乗っていた3時間まともに席に座ることができなかった。永遠のように感じられた新幹線を降りてから、さらに電車で乗り継ぎ千葉県柏市へ。柏駅の周辺は当時から栄えていたが、僕の家のあるところは柏市でも相当田舎の方。住んでいた家のある住宅街を抜けるとネギ畑があり、その中を通る一本道を300メートルぐらい進んだ先に僕らが通うことになる小学校があった。学校の裏門からは5㎞ほど先を流れる利根川まで一面に田んぼが広がっている。そんな景色が卒業して30年たった今も、ほぼ変わることなくそこにあるような筋金入りの田舎だった。

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憧れの兄を追った中学受験

 身内自慢になってしまうが、兄はとにかく勉強がよくできた。公文式では小学3年生で中学生以上の数学をスラスラ解いていた。そんな勉強のできる兄が、小4のある時から中学受験のために塾に通うことになった。柏駅の近くにある塾で最寄駅までの車の送迎、電車移動、駅から塾までの徒歩と片道40分以上かかっていたと思う。
 地元の小学校でダントツ秀才だった兄は、塾でもすぐにトップグループに入る。週に2、3回塾に通って1日に4〜5時間ほどの勉強。塾のない日も2〜3時間は家で勉強する。そのうち毎週日曜日には、テストを受けるために東京にまで足を運ぶようになった。僕とは違い素直で、勉強のよくできる兄が塾で成績1位になり、全国で2千人程度の小学生が受ける毎週日曜日のテストでも常に20位以内には入る姿はカッコよく、弟ながら誇らしかった。
 兄ほど勉強ができる感覚はなかったが、学校のテストなら負け知らずだった僕も「兄ちゃんみたいになりたいなぁ」「僕もいずれ塾に行くのかなぁ」と兄と同じ道を歩む自身の姿を妄想しては、母と家で勉強に勤しむ兄の姿を憧れの眼差しで見つめていた。兄の成績は全国でもトップクラスで、小4になった僕が同じ塾に通いはじめた年の冬、中学受験をやり切った兄は第一志望のK中学に見事合格した。何をもって日本一と語るかは難しいが、それでも日本一高いレベルの中学であることは間違いなかった。

 その翌年から、我が家の焦点は僕の受験勉強にシフトし、僕は大好きだったサッカークラブを辞めることになった。日本中に大ブームを起こした『キャプテン翼』の影響もあり、僕は小学1年生からサッカーをはじめた。サウスポーで背も高い兄には、勉強だけでなく野球や他スポーツでも及ばなかったが、サッカーだけは僕の方がコーチに褒められることが多く、それが嬉しかったこともあってどんどんのめり込み、3年生になったときにはキャプテンを任されるまでになっていた。高学年になり体格も変わってきたことで、入団した当初1年生のころに憧れてた先輩のようなシュートが打てるようになり、ますますサッカーが好きになっていた。
 だから余計にそんなタイミングでサッカークラブを辞めるのは正直つらかった。塾に通うことや勉強は嫌ではなかったが、中学受験のために「本当に好きなこと」を諦めなくてはいけないのか? 中学受験とはそれほど大事なものなのか? 当たり前のように親の指示に従ってサッカークラブを辞めることにはなったが、子供心に抱いた疑念の余波は、その後もさざ波のように僕の内に残り続けることになった。

受験とはまさに戦争である

 大好きなサッカーをやめ、塾の先生や母親と勉強漬けの日々が始まった。当たりのきつい指導は日常茶飯事で、デキの良い兄と比較され悔しい思いもたくさんしたが、学校外の友人たちと一緒に「志望校に合格する」という共通の目標を追いかけ、努力する日々は充実していたし「憧れの兄と同じ学校に入りたい、兄に負けたくない」という思いが僕の背中を押し続けた。僕の成績は圧倒的に勉強ができた兄には劣っていたものの、通ってる塾ではトップクラス、毎週日曜の全国テストでも上位50〜100番内はキープという感じで2年間推移した。中学受験が始まる小6の冬、憧れのK中学は射程圏内。といっても難関校だけに「良くて合格率60%」という感じだったが、受験することに迷いはなかった。

 スベり止めの意味で受けた2つの私立中学を無事合格すると、2月の頭、本命のK中学の受験日をむかえた。どんなテストだったか、どんな心境でいたかの記憶はない。ただ受験当日の朝、親と一緒に決戦会場に向かう道の途中には、いろんな塾の先生が駅伝の応援のごとく沿道から生徒たちに激励の声をかけていた光景は今でも覚えている。
 試験の手ごたえは良くなかった。苦手にしていた算数で躓いたのが自分でもわかった。他の受験科目のデキは良かっただけに、家に帰ると「落ちた」という確信から涙があふれて止まらなかった。翌日、結果にはほぼ影響しないと言われる面接がありそれには参加したが、さらに翌日の合格発表には僕は行かず、父と兄に行ってもらった。結果を伝える父からの電話も母に出てもらった。合格者が書かれた掲示板の中に僕の番号はなかった。
 「本気で落ち込む」という経験を生まれて初めて味わった。大好きなサッカーをやめてまで注ぎ込んだ時間と、悔しい思いをしながらも積み上げていったことが報われなかったという冷酷な現実に打ちのめされた。唯一僕の心を癒やしてくれたのは、受験戦争という戦いに共に挑み、苦楽をともにした仲間の存在だった。同じ塾から受けた8人のうち3人は無事にK中学に合格。机を並べて一緒にがんばってきた仲間の合格は、素直に嬉しかったし心から祝福することができた。そして残念ながら僕と同じように、K中学を落ちた仲間の存在は少しだけ落ち込む気持ちを和らげてくれた。

 試験を受けている間は小学校を欠席していたのだが、合格発表の翌日も僕は欠席を続けた。K中学に合格できなかったことがショックで、学校に行く気が起きなかったからだ。僕は試験の結果に打ちひしがれこの世の絶望を味わっていたが、母は強かった。
 「男のクセにいつまでもくよくよしてるんじゃない。いつも偉そうにしてるガキ大将じゃないの?!」と叱咤し、僕に新しい学校を受けることを提案してきた。私立の名門O大学の中等部だった。名前は知っていたが、兄と同じ学校に行くために受験勉強をしていた僕は、その学校を受験することはまったく想像していなかった。どんな学校で受験日がいつかも知らなかったが、母曰く「あなたには絶対向いている」「すごく良い学校」「筆記試験はKよりは簡単なはず。でも面接の方が大切。でもあなたなら十分可能性ある」と激励してくれた。母から語られる新しい目標は志望校に落ち呆然としていた僕を奮い立たせてくれるには十分な魔法で、僕は顔を上げた。
 試験日まであと数日しかない。僕は母から渡された過去問にとりかかった。偏差値でいえばK中学とあまり変わらないが、苦手な算数に難解な感じがなく全体的に試験問題との相性の良さを感じた。面接の練習にと、家の中でどこから引っ張り出してきたのか初見の紺のブレザーに袖を通し、生まれて初めてちゃんとしたネクタイをした。色はO中学のスクールカラー。こういうときの母は仕事が本当に早いし、よくできる。

 試験本番初日の筆記試験、手応えは十分だった。翌日の面接。ちょっとした体育の後、親を交えた面談。人見知りしない性格だった僕はここもうまくこなせたように思う。試験の帰り道、母も「これでだめなら仕方ない」とすっきりした笑顔だった。そして合格発表。僕は見事に最後の壁を乗りこえてみせた。O中等部の結果は合格だった。
 K中学の試験がはじまってから1週間以上学校を休んでいた僕は、合格の翌日、久しぶりに登校した。担任には休みの理由が伝わっていたが、事情を知らない友達は「体調悪かったの?」と随分心配してくれた。久しぶりに会う友達に「兄と同じ中学を受けたんだけど落ちたから、別の学校に入るテストを受けてたんだ。その学校に行くことになったよ」という話をした。
 O中学への通学は、K以上に遠かったが、とても大きくキレイで明るい学校という印象を受験の時に持っていて、そこに通う新しい自分の未来像がKの受験失敗の傷を癒してくれつつあった。

だが、この日事件は起きる。

 家のドアを開けると、母親が居間から飛び出してきて「さっきK中学から『補欠合格になった』という電話が来た」と興奮気味に伝えてくれた。
 僕は飛び上がるほど驚き、そして喜んだ。
 「兄ちゃんと同じ学校に行ける!」「大好きなサッカーを辞めてまで勉強した努力が報われた」という喜びを噛みしめた。O中等部も良かったが、家族全員でめざしたK中学の合格である。母も当然、喜んでくれると思っていた。だが、次の瞬間、母はまったく予期していなかったことを言った。
「でも、あなたはO中等部に行った方が良い」
 あまりに意外すぎて最初は言葉の意味がわからなかった。戸惑う僕にはおかまいなしに、母は「あなたにはOの方が向いている」「まさかOに受かると思ってなかった。受かるんだったら最初からOに進学することを勧めていた」「学費もOの方がぜんぜん高いけど、それだけ良い学校なの。お父さんにがんばって払ってもらうから、Oに行ってほしい」とまくし立てた。
 ただ、母に何と言われようと僕の頭の中にはK中学への進学しかなかった。「そのためにこれまでやってきた」のだ。僕と母の意見は完全に割れてしまった。2日以内にどちらかへの進学を断わらなくてはいけない中、母は本気だった。「Oは断ってよ」という言葉にはまったく耳を貸さず、僕への説得を続けた。
 「あなたはまだ子供だからOがどれだけすごい学校なのかわかってない」「女の子もいるし絶対Oがいいわよ」と、顔を合わせるたびの説得に子供ながらに辟易した。あれだけK中学への進学を勧めておいての言行不一致に母への不信感が募っていった。
 僕がいっこうにK中学への進学を諦めないことに業を煮やした母は、父にも説得を依頼。ちょっぴり面倒な仕事を引き受けた父は僕に「お母さんの話もよく聞いた方が良い」とは言ったが「HIROが行きたいところに進学すればいい」とも言ってくれた。
 結局、期限ギリギリまで説得を続けたあげく、最後は母が折れた。O中等部に辞退の電話を入れるときも「本当にいいのね?」「もう一回考えてみない?」と僕にしつこく聞いたが、あれは多分、自分に問いかけていたのだと思う。断りの電話をかける母は寂しそうだったが、受話器を置いた次の瞬間からは、僕と兄、2人で同じ学校に行けることを喜び、家族みんなで祝ってくれた。
 どん底を味わったK中学の不合格発表からの逆転合格、土壇場での母の変心?まで、実に目まぐるしい10日間だった。

 長かった中学受験が終わった2月中旬から卒業するまでの1カ月ぐらいは、これまでの人生の中で最も「幸せ」を感じられる時間だった。勉強はもうしなくてよかったし、小学校や塾の友達と何時間もファミコンをしたりして、めいっぱい遊んだ。いつまでもこんな時間が続いてくれれば良いのに。そんな風に思える時間はあっという間に過ぎて、僕は小学校を卒業した。
 畑の中の通学路。広がる田んぼ。好きになった女の子。サッカーをしたグランド。最後までガキ大将として受け入れてくれた友達たちとの別れ。一抹の寂しい思いはあったが、同時に4月からK中学に通えることへの期待と希望で胸はいっぱいだった。