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落語「道具屋」の思い出

【「道具屋」あらすじ】
度を超えたぼんやり者の主人公・与太郎は、二十歳になるというのに定職にも就かずにぶらぶらしている。見かねた叔父は、彼に「道具屋」の仕事をやらせてみることにした。
しかし、間抜けな与太郎はまともに商売をすることができない。
売り物のノコギリを見た客に「ナマクラだな。焼きが甘いんじゃないか?」と言われ、「甘い?」とノコギリを舐めてみたり、「火事の焼け跡から盗んできたからしっかり焼いてあるはず」と正直に言ってしまったりする。
要はバカな男がフリーマーケットをやってみたら全然うまくいきませんでした、みたいな噺。



大学時代の友人に「げろしゃぶ」とあだ名された男がいた。

別にいじめられていたわけではない。ただニックネームとしてそう呼ばれていた。


ひどい名前とは裏腹に、僕も含め周囲の人間は彼に憧れていた。彼と最後に会ったのはもう10年近く前になるが、いまだにその鮮烈な存在感は僕の中に息づいている。

僕がこの先何年生きるのか分からないが、この人生の中で彼のような人間と出会うことはもう2度とないだろう。当時の友人たちも同様の思いを抱いていると思う。

げろしゃぶは現代に生き残った侍だった。僕はげろしゃぶになりたかった。



僕は大学時代に落語研究会に所属していた。

そのサークルには、落語を演じるときに名乗るため「高座名」というニックネームのようなものをつける慣習があった。僕のかまどという名前もそこでつけられたものだ。

所詮、大学生の戯れなので命名なんて適当なものだ。痩身のひょろっとした同級生は「紐久(ひもきゅう)」と名付けられていたし、色白だからという理由で「色次郎(いろじろう)」という名前をもらった奴もいた。


当時、落研の4年生に「ふーみん」という名の先輩がいた。この名前は漫画「すごいよ!マサルさん」に登場する名前からとったらしい。

※「すごいよ!マサルさん」の作中で主人公にあだ名をつける場面があり、そこで「フーミン」か「げろしゃぶ」の二択を迫られるというギャグシーンが描かれている。

ギャグ漫画の金字塔から名を拝借しただけあって、ふーみんさんは面白くてカリスマ性のある先輩だった。快活なダミ声が心地よく、問答無用でその場をパッと明るくするような明石家さんまと同じ効能を持つ。

また、落研仲間を引き連れて大学生らしい大胆な遊びをやっていて(取り壊し予定の封鎖された校舎に忍び込み、「一度でいいからやってみたかった」と緊急避難用のシューターで滑り台をしたりとか)、その不良っぷりもなんだか魅力的だった。

キャンパス内にあるドブの色をした池に躊躇なく飛び込んで涼をとったり、廃校舎のトイレで催した時は、小便器に大便をして「誰もいないトイレにうんこが! きゃー!」とスカトロホラーを演出したり。ずいぶん破天荒な先輩だったけど、入学したての一年坊が否応なく惹きつけられる人でもあったのだ。


ある日、そんなふーみんさんが異様な風貌の一年生を連れてきてこう言った。

「こいつは逸材だぞ。絶対に落研に入れよう」

ふーみんさん肝いりの一年生である。彼の高座名を決める際もふーみんさんの一存で決定した。


「高座名なんて『げろしゃぶ』以外ないだろ」

それから彼は「げろしゃぶ」と呼ばれるようになった。



新入生歓迎シーズンのキャンパスは、入学したての1年生だけでなく、彼らをサークルに勧誘しようとする上級生たちも集まってくるため多くの学生で賑わう。

キャンパス内にはさまざまな学年が入り混じるが、4月の一年生はちょっと背伸びしたような服を着てたり、プラスチック製の透明なブリースケースを持ってたりするので、一目で「こいつは新入生だ」と分かる。そんな中、げろしゃぶの風貌は異様だった。

周りはピカピカのパーカーや裾の折り返し部分だけチェック柄になってるチノパンを身につけた一年生ばかりなのに、げろしゃぶはあちこちシミだらけのくすんだスウェットと便所サンダルでキャンパス内をうろついていた。一言でいえば「浮浪者」といった出立ちで、ふーみんさんがなぜ彼を一年生だと見抜いたのかはいまだに謎である。

持ち物は何一つ持っておらず、彼のズボンのポケットには小銭が詰め込まれているため、歩くたびにジャッグジャッグと音が鳴る。小銭の重みでずり落ちるのか数歩歩くごとにズボンを引き上げながら、無精髭を指先で弄りつつキャンパス内を闊歩している。「やっと部屋から出てきてくれたのね…!」と母親が感涙しそうな佇まいだ。

「げろしゃぶ」という名も初めは「こんな名前つけられてかわいそう」と思っていたが、しばらくすると皆が当たり前のように彼をげろしゃぶと呼ぶようになった。それに見合う風貌だったからかもしれない。


げろしゃぶの性格は象のように大人しく、植物のように穏やかだ。大学生活の4年間で彼が声を荒げる姿は一度も目にしなかったし、何を言われてもニコニコとしていた。

口数は極端に少なく、おっとりとした口調でスローリーにコミュニケーションをとる。こちらが何か問いかけても「あれ? 無視された?」と思うようなテンポで返事が返ってくる。終始ぼーっとしていて、ナマケモノのような緩慢な雰囲気をまとっている。人間の寿命が1000年くらいあったらこんな感じになるのだろうか。

げろしゃぶは風呂に入らない。不思議と異臭はしないので誰も気に留めていなかったが、彼自身はいつも痒そうに身じろぎしていた。なぜ風呂に入らないのか尋ねたことがあるが、風呂に入ると垢が落ちてその垢一枚分身を守るものがなくなるので風邪をひくのだと言っていた。げろしゃぶなりの冗談だったらしいが、僕はその時変に納得してしまったのを覚えている。

彼は大学入学と同時に福岡に越してきたが、アパートを借りたりはせず知らん人の元に居候していた。はじめは親戚の家なのかと思っていたが、げろしゃぶに聞いても照れたようにはぐらかすのでどうもそうでないらしかった。真相は今でも分からない。

彼はケータイも持っていないため、遊びに誘う時はその居候先の家を訪問し、塀越しに「げろしゃぶ、遊ぼうぜ〜」と声をかけなければいけなかった。声をかけても、悠久の時を経てからガラス戸が空き「お〜ん」と返事が来るので、不在かどうかはかなりの時間をかけないと判別できなかった。

世捨て人のような風貌とコミュニケーションを成立させる難易度の高さのせいでキャンパス内でも浮いていたが、落研ではこのただならぬ風情が物珍しがられ何かと可愛がられていた。案外、子犬のような可愛い顔をしていて、つい話しかけたくなるような求心力があるのだ。


同じ落研の同級生として、僕らも初めこそからかうような文脈で彼と接していたが、げろしゃぶの生態に慣れて次第に物珍しさを失ってからは、友人として接するようになった。そして、げろしゃぶと会話するうちに(植物と会話するような時間がかかるが)、彼がただの珍奇男ではないことがわかってきた。

げろしゃぶは教養が深い。彼の部屋には夥しい量の古書が蔵書されているらしい。また、狂歌や都々逸、書画を好んでおり、隠居した武士の嗜みのような嗜好を備えていた。彼自身は工学部の学生なので、大学の研究や勉学に繋がることはない無垢な趣味である。

落研の部室ではウブな大学生がJ-POPの話などをしたりするが、げろしゃぶはそういった話題に全く興味を示さない。文系の先輩が「邦楽の歌詞は七五調になってるものが多いから、都々逸に互換できるんじゃないか」と歩み寄ってようやく興が乗ってくれるくらいだ。

この嗜好もスローモーションなコミュニケーションの中で何とかキャッチできた要素にすぎない。大学生活の4年間しか一緒にいなかったので、結局げろしゃぶは何が好きなのか、何を考えているのかは掴めないままだった。

部室には誰でも好きに文字を書き残せるノートがあり、部室に来た者は適当にその日あったことを書き記したりしていた。たまにげろしゃぶもそのラブホテルのカップルノートみたいなシステムに参加してくれることがあったが、解読困難な崩し字で難解な手記をページいっぱいに残すので皆が圧倒された。あと、「走狗」という奇怪なマスコットキャラクターを書いてたりもしてたな。あれなんだったんだろう。

僕の妻も同じ落研に所属していたので、彼のことはよく知っている。妻はげろしゃぶのことを現代にタイムスリップした侍なんじゃないかと疑っている。確かにフィクション作品で武士が部屋の中で書を嗜んでいるシーンなどを見るとげろしゃぶみたいだなと思う。

げろしゃぶが語る言葉も残す文字も、僕らの文脈ではその意味を十全に捉えることができない。現代とは全く違う風土に根ざした世界観を内包していて、それがたまらなくカッコよかった。


落研なので、げろしゃぶも落語を演じることがある。こんな感じの人間なので、当初はまともに喋ることができるのかと危惧されていたが、案外しっかりとネタを覚えており、スローではあるものの最後まで演じることができていた。そして抜群に面白かった。

セリフはつっかえつっかえ、動作も緩慢。お世辞にも上手い落語ではなかったが、しかし台詞の端からげろしゃぶが讃える世界観が滲み出るようで、凡百の落語とは比べ物にならない色気があった。

落語には「フラ」という概念がある。落語の巧拙とは関係のない言語化できない可笑しみのことで、その人が持って生まれた愛嬌や雰囲気を指すことが多い。「なんでか分かんないけどなんか笑っちゃうんだよね」と思わせるような噺家を「あの人にはフラがある」と表現したりする。

僕が落研のOBにげろしゃぶのことを語った時、そのOBは「フラがある子なんだね」と頓着していたが、これでは彼のことを伝えきれていないと思う。げろしゃぶの世界観は可笑しみとは無関係の域にも機能するからだ。


げろしゃぶが初めて演じた落語が「道具屋」である。

道具屋には落語ではお馴染みのキャラ「与太郎」が登場する。落語ではバカの代名詞として扱われ、あらゆる失敗をするキャラクターなので滑稽噺の主役を張ることが多い。

「バカ」と形容したが、よくよく考えてみればそんな言葉では足りないくらいひどい描写が多いので、社会不適合者とか落伍者のような言葉を使っても良い。そんなキャラの失敗談なので、場合によってはあまり気持ちの良い噺ではないようにも見える。

落語ファンは与太郎のことを「愛すべきバカ」「憎めない奴」「バカがゆえに大胆な発想をする奴」などと捉え、「こういう人も迎え入れる落語の世界は素晴らしい」みたいな言い訳を用意している。

しかし、落語が創作された時代のことを思えば、現代では差別用語で表現されかねないキャラクターとして登場させているはずであり、構造上「愚鈍な男を嘲笑う」噺でもあるため、この与太郎が登場する落語を嫌う人も一定数存在するし、落語家の中でも敬遠している方を何度かお見かけしたことがある。

鼻を垂らしているような舌足らずの間抜けな発声で演じられることもあるため、親が「笑っちゃいけません」と言うような人を真っ向から笑い者にしているように感じる人もいるようだ。

しかし、僕はこの与太郎のことをそういう目線では捉えていない。げろしゃぶが演じる道具屋を見たことがあるからだ。

げろしゃぶが語る与太郎は、セリフこそ一般的な与太郎と同じ言葉を出力しているものの、とてもバカの一言では括れない色気を放っていた。演者と同じく、その胸の内に途方もない世界観を有していて、社会との折り合いに頓着がないだけの男に見えた。

落語は演者の人間性が常にクリッピングされた状態で披露される演芸である。同じ与太郎を演じるにしても、噺家によってキャラクターの色合いが変わることは往々にしてある。自分なりの解釈を加えてオリジナルの個性で味付けをはかる演者もいる。しかし、げろしゃぶの与太郎はそれらとは全くの別人であった。

落語ファンには、与太郎を浪漫を持って捉え直し、そこから哲学のようなものを抽出しようとする人がいる。例えば「常識に縛られないバカだからこそ、社会性に囚われた我々が見習うべき処世術を持っている」とかそんな調子で。そういえば、立川談志も与太郎を単なるバカと見なさずに再定義をはかっていたような気がする。

げろしゃぶの道具屋を見た落研には与太郎をそうやって捉え直す人はいなかった。何せハナから与太郎のことを社会についていけない愚か者だと思えなかったし、社会の方がついていけない程の得体の知れない人物だと解釈できてしまっているのだ。

一般客を前に披露した落語会でも、同様の趣旨で賞賛する声が寄せられていた。彼のことを知らない人にも与太郎がそう見えていたのだから、げろしゃぶの落語は内輪だけに伝わるものではなかったと思う。

僕も落研の一員として、落語を披露する機会は何度もあった。自分で言うのもなんだけど、学生としてはかなり上手い方で先輩方からも慰問先でも褒められることは多かった。でも、そんなものげろしゃぶの前では塵芥である。

僕の方が落語は上手だし、お客さんを笑わせてもいたけど、巧拙とか笑えるか否かとか、そういった基準とは埒外の魅力がげろしゃぶの落語にはあった。

僕は4年間落語をやってきたけど、一度たりともげろしゃぶを越えたことはない。ものが違う。いくら努力しても越えられない一線を感じて、当時の僕はとても悔しがっていた。そして、次第に爽やかな諦念へと移っていった。

巨大な才能を目にして夢を諦めるというのはよくある話だけど、僕は別に落語家を目指していたわけじゃない。僕が目にしたのはげろしゃぶという人間であり、彼を形作る全てであって、僕が諦めたのは自分であり、自分を形作る全てである。

これが一個の才能であれば、落研を卒業してしまえば思い出話になっただろう。しかし、落語が演者の人間性を含有する演芸だっただけに、単なるサークル活動内の競い合いではなく人間性の比べっことして機能した。あれから僕は何を成すにもげろしゃぶに劣ると思えてしまう。

僕はげろしゃぶの落語ではなく、彼の存在そのものをくらってしまったので、僕はこの諦念と一生を添い遂げることになるだろう。

僕はみんなに伝わるような文字が書けるし、みんなを楽しませるような文章が書けるかもしれないが、げろしゃぶに比べればこんなものは虚仮だ。

今まで、人として尊敬できる先輩・お腹を抱えて笑ってしまう面白い奴・とんでもない発想力を持つ天才など、稀有な人たちとたくさん出会ってきた。でも、げろしゃぶに比べれば皆つまらない。



げろしゃぶが今何をしているのか僕は全く知らない。確か大学院に進学したという話を聞いたが、その後の動向は分からない。就職してたりするのかな。全く想像ができないけど、げろしゃぶは成績も優秀だったので案外堅実なキャリアを築いているかもしれない。

そういえば大学を卒業して数年後、同級生のグループLINEに突然げろしゃぶが現れたことがある。結局一言も発せず気づいたらグループを退会していたが、当時はげろしゃぶがスマホを持っていることで皆が驚愕していた。

今のげろしゃぶは僕が出会った頃とは変わっているのだろう。いつか会える日が来たとしても、僕はげろしゃぶに比べたらつまらないと思ってしまうかもしれない。厄介な病理だな。

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