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邪な気持ちで坐禅をやってみたら気絶した話

ドラッグをキメた〜〜〜〜〜〜い!!!!


違う。こんなことが言いたかったんじゃない。文章を書くのがめんどくさすぎてひどい書き出しをしてしまった。なんてこった。

順を追って説明しよう。まだ通報しないで。


最近「インスタント禅」という言葉を耳にした。薬物中毒者がLSDのことを例えた言葉らしい。

LSDといえばバキバキの幻覚剤で、僕はフィクションの世界かニュース番組でしか目にしたことはない。素人の理解でいえば、服用すればサイケデリックなトリップ状態に陥り頭がヒッピハッピシェイクになってしまう劇物であり、決して関わってはいけない違法薬物である。

そんなLSDを巷では「インスタント禅」と呼ぶのだそうだ。いわく、坐禅を通して得られる神秘的な体験とLSDのそれがよく似ているとのこと。深い瞑想の先に見えてくる宇宙との一体感が、LSDを飲めば即席で得られるらしい。

弛まぬ修行の果てに到達する宗教体験にたった一粒で到達してしまうのだから、やはり薬物は恐ろしい。しかし、僕は「待てよ…?」と思った。

頭の中で成歩堂の声がする。発想を逆転させるんだ。


「LSDは手短に禅の世界に到達できる」ということは、逆を言えば「禅は遠回りなLSD服用だ」と言えないだろうか。

実際、薬物中毒から抜け出した人で禅や瞑想に傾倒する人は多いらしい。ドラッグと同等の効果を、合法かつ安全に、コントロールされた状態で得ることができるためだという。

つまりは、そこに至る手間暇に差はあれど、薬物乱用のトリップ状態と深い瞑想状態は代替可能ということだ。坐禅とはポリネシアンLSDなのかもしれない。

虹を絞り染めしたようなギラギラのサイケデリクスアート、あの角膜を突き刺すようなドラッギーな万華鏡の絵を皆さんも一度は目にしたことがあるだろう。僕はあの世界を違法薬物でしか見ることのできないイリーガルなものだと思っていた。

しかし、もしも。あれが法定速度を守れば安全にたどり着ける景色だとしたら…?

やってみたい。

そんな不純な動機で「禅」に取り組んでみることにした。



あぐらをかいて凛とした姿勢をとり、目を半開きにして呼吸に集中する。付け焼き刃の知識だけど、禅の指南書を読み漁ると大体同じようなことが書いてあったのでそんなに間違ってはないだろう。

Youtubeで禅のお供になる動画を探し、そいつを流しながら見様見真似の坐禅修行を始めた。禅の開始を告げるリーンという鐘の音とともに、自部屋に静寂が満ちる。


禅を始めてすぐに、僕の頭の中は雑念だらけだということが体感できた。思考があちこちに散らかってロクに集中できない。「これが終わったら観葉植物に水をやろう」とか「何かやるべき仕事が残ってた気がするけどなんだったっけ?」とか、別に今考えなくてもいい事柄が次々と頭に浮かんでくる。

指南書によれば初心者は大抵そんなものらしく、雑念を払おうと躍起になる必要もないという。「あ〜今、こんなこと考えてたな」と俯瞰で捉え、脇に追いやり呼吸に集中すればよい。

このような雑念は、人間が過去や未来にかかずらっていることが原因で発生するものらしい。そして、日頃のストレスや悩みも同じところから生まれているそうだ。

もうどうすることもできない過去や、来るかも分からない未来について無用な思考をしない。頭の中にしか存在しない過去・未来と自分を切り離し、とにかく「今」に集中する。それが禅の極意なんだって。

悩みの原因から自己を切り離す修練ができるので、禅には日々のストレスを和らげる効果がある。人々が禅に傾倒するのはその辺の効果を見込んでのことらしい。


正直、禅についての知識を仕入れている段階で、LSDのような恍惚の宗教体験は一朝一夕には辿り着けない境地であることは理解できた(一方で、まるっきり嘘というわけでもないようで、実際にそういった体験をした人もいるみたい)。

ただ、この過去・未来と自己を切り離して「今」に集中するという考えは、それはそれで興味深い。僕は過ぎたことをいつまでもクヨクヨ思い悩むタチなので、禅を通してメンタルコントロールの術が会得できたらいいな〜と思っていた。


禅の最中、頭に浮かんでくる雑念をいなしながら、何度も呼吸に集中し直そうとする。油断すると「自分の手がレゴ人形の形状だったら、何をはめ込むことができるだろうか」とか、マジでどうでもいいことを夢想してたりするので注意が必要だ。

「吸って、吐いて」に集中していると、たまに「あ、今なんも考えてなかったな」と気付く瞬間があったりする。受験勉強とか単純作業とかにめちゃくちゃ没頭した時にようやく得られるような思考のスキップ・時間の空白が、ただ座って呼吸しているだけで発生している。この感覚はなんだか面白かった。これが禅の主成分なのだろうか。

もう一度同じ感覚を覚えるために集中を続ける。その時のおぼろげな手応えを頼りに、意識が同じ道を通るようにイメージする。意識が自然に流れるような浅い溝を目隠しのまま手探りで見つける感じだ。

何度もトライしていくうちにその溝が深くなっていき、無心状態に至りやすくなるだろう。砂浜に水を流すと、流れる水がゆるゆると砂を削って自ずと水路が生まれる。ちょうどあんな感じで、何度も意識を流し込んで瞑想状態に至るような通り道を作っていくのだ。

僕は中学生の頃にエッチな夢を見るために明晰夢をマスターしようとしていたことがあるので、この手の感覚コントロールには覚えがある。あの時、痴女と空を飛ぶ淫夢を見ることができた僕なら、きっと禅も攻略できるに違いない。



しばらく雑念とのいたちごっこを続けていると、雑念とは別の思考が頭を支配するようになった。

体が痛い。


あぐらをかいている足の痺れもあるが、とにかく背骨のあたりがギシギシ痛む。禅では背筋を伸ばして正しい姿勢を維持しなければならないが、どうもその正しい姿勢とやらが僕にとっては負担を強いる形状をしているらしい。

時折、「そういえば姿勢を整えないといけないんだったか」と背筋を伸ばそうとするが、その度に骨が軋む。この痛みは、過去でも未来でもない切実な「今」なので無視するわけにもいかない。

痛みだけではない。さっきから汗が止まらない。ただ座ってるだけなのに、筋トレ直後のような汗の吹き出し方だ。なんで??? 僕の体にとって、正しい姿勢とはそんなに重労働なのだろうか。

汗を拭うと集中が途切れる気がしたので放っておいたが、もうこれって、ただ座って顔に垂れる汗をカウントするだけの男になってないか? 「あ〜この汗、このままだと鼻の穴に入っちゃうな」とか考えてるんだけど。これは「今」の事象に集中してるからアリなの? それともただの汗観察?

くそ。冷房つけときゃよかった。夜中だから油断してたけど、さっきからこの部屋は熱気と湿気でムンムンしてやがる。この際、冷房ガン焚きにして仕切り直したくもあるが、何かこの「あ、今何も考えてなかったな」という感覚を手放したくないし、今さら中断するのも気が引ける。中断すりゃよかったのに。坐禅の途中に「冷房」って単語を思い浮かべた時点で何も集中できてないだろ。


僕は汗や痛みを物ともせずに集中を続けることが何か禅っぽいと思っていたので続行した。

すると、半開きの目に映る視界がぼんやりし始めた。

スポットライトの明かりが絞られるように、視界の隅が暗くなっていく。「お?」と思うと、集中力が切れたからかフワッと視界が元に戻る。

ここにきて、汗や痛みとは別の明らかな変化が現れたので気分が高揚した。なんか今、違う世界が見えようとしたんじゃないか? おいおい。初日でもう悟りを得ようとしてんのかよ。インスタント仏陀じゃん。

気持ちを落ち着けて、再度禅を続ける。もはや、骨の痛みも汗の軌跡も気にならない。気にしてはならない。すぐそこにサイケデリックな世界が待っている。いけ!かまど! 無心だ! 無心になれかまど!

次第に似たような感覚が戻ってきた。視界が暗く狭くなっていく感じ。いいぞ! キメろ! 脱法LSDをキメてアヘ顔ブッダになれ!




で、気絶したってわけ。

気がついたら、背後のベッドに寄りかかってて、マットレスが汗でしとどに濡れてた。


なんこれ? 禅ってこういうことなの? 

Youtubeの動画が終わってなかったので、何分もぶっ倒れてたわけじゃないと思うけど、完全に卒倒してた。無心ってこういうこと? 違うよね?


多分、姿勢とか意識とかに集中した結果、呼吸が疎かになって軽い酸欠みたいになったんじゃないかと思う。途中何度も「呼吸ってどうやるんだっけ?」とゲシュタルト崩壊じみたことも起きてたので、うまく息が吸えてなかったんじゃないだろうか。

そういえば、あの視界の変化って立ちくらみとかでブラックアウトする症状とよく似てたな。え? 俺、座ったまま立ちくらみしたの? 器用すぎるだろ。

要するに、僕は身体の不調を神秘的な体験だと勘違いして、積極的に気絶しにいってたのだ。バカかよ。自らの意思で気絶する奴がいるか。


意識が飛んでいたことに気づくや否や、心臓がバクバク鳴り始めたが、足が痺れて立てないのでその場にへたり込んで、怖くてちょっと泣いた。

禅が教える正しい姿勢と正しい呼吸は、僕にとって卒倒するくらいの難事だったらしい。ヒトとして最低限のマルチタスクができねえのかよ。そのまま気絶してろよ、もう。

指南書を読み返すと、瞑想はリラックスできる環境・姿勢でやるものだと書いてあった。骨が痛んだり、汗が噴き出る時点で大間違いだったわけだ。やっぱりあれはただの汗観察だった。冷房つけときゃよかったんだよ。


禅の途中で何度か感じた「何も考えていない状態」というのは、心地が良いものではあった。正しい形で坐禅をやればきっとこの感覚が習得できるのだろう。そういう実感も確かにあったし、この感覚を日常にまで汎化することができたなら、きっと統制の取れた健やかな精神で過ごすことができるに違いない。それは擬似LSD体験よりも重宝する体験だと思う。

でも、僕は無理だ。だって座ってるだけで卒倒するんだもん。向いてなさすぎる。まずは楽に座っていられるように体の面倒を見ることから始めなければならないが、それはもう禅じゃなくてリハビリだ。

僕は今後の人生を、歪んだ姿勢で浅い呼吸をしながら思考を散らかして生きなければならないことを悟った。

イヤホンの奥では、Youtubeの禅動画が終了を告げる鐘の音を鳴らしていた。



==以下、日記==

・除毛した話
・ルックバックの話
・Youtube動画に出た話
・フリートの話


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