見えないライン

私はそう、"自由"と"自分勝手"の違いを考えていたのです。
電車での移動中、スクーターでの移動中。
私は移動中の考え事が好きなのです。
"おまけ"のような時間に自由を感じるのです。

"自由"には制約がいります。
物理法則や生物法則。ルールやマナー。
自由な人が範囲の中で軽やかに踊る姿には憧れます。
"見えないラインがまるで見えているよう"

そう、私は多くの方々と話し気づきました。
"ラインが見えない"ことが。
これをすると笑う、これをすると怒る。
多くの人は当たり前に見えている"ライン"

たとえるなら、運動会。
運動場に白線で陸上トラックを描き、リレーをする。
ゴールは半周先。一番に着いた人が勝ち。
ヨーイドンでスタート。

私は、運動場は見えているが"白線が見えない"。
スタート地点から真っ直ぐゴールに向かう。
観客は何やってんだ白線を守れと大声上げる。
ぽかんとする、こちらは見えない白線が。

私のコミュニケーションはこれなので、
他の人が走っている"後をトレース"するか、
あの辺りに白線があるんじゃないかと"予想する"か。
"後追い"か"博打"になるのです。

ただ、これだと"面白いことや適切なユーモアは言えない"のです。
誰かの後付けか、ラインを超えて怒らせるか、
ラインの余地が多くてつまらないか。
しゃべらないでいるか。あるいはそう"博打"に出るか。

ラインは見えないが、ユーモアへの意志を持ち、
ラインは見えないが、面白いことをいいたい。
この気持ちはある。
"自分勝手"ではなく"自由"に会話がしたい。

というように、向いていないことは明白なんだけど、
やりたい。
向いてなかろうが、面白いことが言えなかろうが、
やっていく。

安心してくれよな、ノーブル。
20年先でまだここだぞ。
ぜんぜん面白いこと言えないぞ。

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