ただの日記①

 最近、このブログを家族や知り合いが見つけて見るようになったので、記事を載せるのもなんとなく照れくさくなり、書きたいと思いつつも、書くことから遠ざかっていた。

 「思うままに書いた文章を、誰が見るというのだろう」という問題が常に頭の中にあるのだが、しかし自分の中身を試しに吐き出さないことには、カッコつけてしまっていては何も出てこないことに気づいた。だけど、自分の家族は皆何らかの独自の表現手法を持っているだけに、自信を持って打ち出せるものが、僕にはなかった。

 以前、年度末の歓送迎会ということで、職場の飲み会があった。別段大多数の人たちにとっては大した話じゃないかもしれないが、騒がしい場所、不特定多数の人が無秩序に話す場所(=雑談の場)、暗黙の了解によって上司、同僚、後輩に気を遣うことを求められる場所は、自分には地獄に等しい。生まれついて、そういう場所が苦手な僕は、飲み会の前日まで夜は眠れず、当日は体の震えが止まらず、着替えるために職場から一度帰宅した際には号泣してしまった。日本の文化において飲み会は、恐怖の象徴であり、同時に孤独の象徴でもある。職場での仕事のやりとり以外に、飲み会やノミュニケーションを除いて、なかなか個人的な話を同僚にするタイミングもないので、色々とゆっくり話す機会は無いに等しい。それでも別に何とも思わない人間だったら良かったのだが、なんとなく寂しいと感じてしまう自分がいるので、どうしたもんかと考えあぐねてきた。

 高校、大学時代も同様のことを思いながらも、上手く人とは相容れず、一人で過ごすことの方が多かった。自分の寂しさを満足させるような人との付き合い方が見つからず、どれだけ仕事をしても、様々な活動がどれだけ評価されても、虚しいと思うようになった。

 制約の多い、かなり癖あるこんな自分であっても、幸せになれるのかと悩むことも多いが。カフェをやったり、シェアハウスをしてみたり、旅行したり、研究や論文執筆に挑戦してみたりして、なんとか自分らしく生きていけるようになりたい。

 なりたい自分、やりたいことを、素直に表現していくことは、恥ずかしく、周りに馬鹿にされたり、賢いと思われなかったり、周りの目や自分がどう思われるかを気にしてしまうことも多い。
 僕の仲間たちは往々にしてそうなのだが、自分を卑下したり、死にたいと口にしたり、インキャラだとレッテルを貼ったりする。また、それを周囲から否定されたいと心の内では思っていたりする。或いは、心の内と行動とが違う、言わば周囲に迎合した仮面(キャラ)を身に着けることで、安心感を担保しながら生きていくパターンもある。

 岡本太郎の言うように、「絶望的に自分を曝け出す」ことは、続けていけば確かに振舞と思考とを合一にすることができるのかもしれないが、誠にしんどい。
 だけど、自分自身と他者の不完全性を認めた上で、自分なりに行動し、表現し、他者との付き合いをよりよいものにしていこうと調整する営みによって、自分を含めたそれぞれの人の成長や、成功、幸せに対して、深い喜びを感じるのだろう。
 人生における深い喜びというのは、おそらく、他人を幸せにしたり、他人の幸せを、自分の幸せと感じる瞬間をもてることだと思う。

 そう思い、他人の幸せを願って自分の幸せを見送ったことを幾度も繰り返すことになったが、結果、過去を振り返る度に悲しみと寂しさばかり感じるようになった。どうやら、これまでの生き方は、心に負荷をかけすぎていたようだ。

 人生における何事も、「個人の意志」や「選択」から成り立つものだと捉えることは、一定の正しさを持っているとは思う。「武士道」で描かれたもののふの道が如く、強い意志、強い覚悟や信念をもって、自らの歩むべき道を選択し続けるモデルは魅力的だし、僕もそうありたい。だけど、生きづらさを抱える僕らにとって、その道には戦いしかない。三木清は、「幸福を武器として戦う」ことを提唱したが、戦い続ける為にはどこかで、心から、生きていてよかったと思える瞬間があると良いなと僕はよく思う。

 

 


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