ベンチ塗りと”みんなの”まちづくり
皆さんは、「黄色いベンチ」という小学校低学年用の教材をご存知だろうか(教員じゃなければ、知らないですよね)。
二人の男の子が公園で飛行機飛ばしをしていて。ベンチに登ると良い気持ちだから、土足で上がったら、次に使った小さい子が泥だらけになってしまう。そこで、みんなが使うものは大切にしなきゃ、ということに気づくお話。
だけど、よく考えてみたら、”みんな”って誰なんだろう。
二人の男の子がベンチを泥だらけにした後、もし他の人が誰も来なくて、二人が帰ってしまったら?もし、二人が他の人のことを気にしないタイプだったら?顔も名前も知らない”みんな”の為に、どうして気を遣う必要があるのか。「そういうもんだ」「それが、マナーだ」と言えば子供には通じるが、果たして大人には通じるのか?逆に大人は、叱ることも、注意することもできない。ポスターを幾ら貼っても、注意書きの立札を立てても、ポイ捨てするひとはするものだ。
人の行動を、”注意”で変えられるのは、学校の中の、しかもその場だけの話。だからこそ僕らは社会の中においては、自分たちが持つエネルギーを人を注意したり自分だけが努力したりすることに向けるのではなく、もっと創造的で面白いことに向けることで、持続可能な活動をしていかなくてはならない。”やめなさい””こうしなさい”を銃弾のように打ち込んで相手に言いつけるのではなく(時にはそれも必要だけど)、”こっちも面白いよ””こうしたら、幸せだと思うな”を、ふんわりと発信していくんだ。
その一つの実践が、この商店街にベンチを置いていくプロジェクトなんだ。その狙いは、二つある。
1.不特定な”みんな”が所有するベンチではなく、”あそこに住んでいるあの人と、この人が一緒になって作ったベンチ”にすることで、「自分たちが作ったから大切にしよう」という意識と、「折角綺麗に作られているものなのだから、汚しちゃダメだろ」という雰囲気を自然と作り出す。
2.”自分たちが作り上げてきた商店街”という意識を商店街に関わる人が持っていけば、大切にしようという思いや、また関わりたいという気持ちは湧いてくる人も多い。
結局、人に与えられたもの、何処かの見知らぬ人が作ったモノは、例え公共物でも、愛着を感じなければ大切にしようという気持ちは起きにくい。だからこそ、時間をかけてでも、「みんなで作った思い出」=「商店街の新しい歴史」を作っていくんだ。
その理念が、僕の活動の根っこにある限り、ブレない。
良い意味でブレないことは、その人への信頼、ひいては活動に関わることへの安心感にも繋がるから、それが僕のこの場所での役目だと思っている。
という訳で、僕らと一緒に、この街(オズモール)を「みんなの街」「あなたの街」にしていきませんか(良いキャッチフレーズだなあ)?
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