かまぼこ型倉庫再発見

かまぼこ型倉庫は、完璧な形だ。
いっさいの無駄がなく、誰にも媚びてはいない。
だから美しい。

松代町を訪れたのは、雪が積もり始めた昨年の十二月頃だ。温泉に向かうタクシーの窓から見える木々や住宅や田や山々は、雪衣によって、すべての形は優しく緩やかで清々しかった。やがて見慣れぬ形のものが至る所に見えることに気がつき、気になってきた。いや、かなり気になった。うまくは言えないのだが、未知のモノを見たときに感じる違和感と、新鮮な好奇心が同時に沸いたのだ。それが、かまぼこ型倉庫と初めての出会いであった。

美術家業をやっていると、たまに説明の出来ない直感が現れるが、まさに説明不能なのに確信めいたものを感じたわけだ。

それから三カ月後、韓国の光州で建築家の塚本由晴氏と焼き肉を食べていた。彼は一回目の大地の芸術祭に参加しており、話題はいつしか、かまぼこ型倉庫になった。やはり彼も、あれを見落としてはいなかった。

「あれはですね、トンネル工事の工程で出る廃材から作っているそうですよ。役場の人がそう言ってましたね。あの形態は大雪を支えるのに力学的に強いんですよ」

なるほど、大きな山を支えていた物なら雪を支えられる。塚本氏の話は続き、雪かきを必要としない合理的な屋根型であることにも触れた。雪とかまぼこ型倉庫とトンネルが一つの線でつながることが見えてきた。僕はますますあのかまぼこ型倉庫のことを知りたくなった。

更に三カ月後、僕は再びほくほく線に乗っていた。松代は緑に包まれていた。

再び松代を訪れる

トンネルを抜けると…松代だった。トンネルといえば、松代を前回訪れて以来、僕にとってはかまぼこ型倉庫である。ほくほく線の開通までの苦節に満ちた道程を思いつつ、松代駅に再び降り立った。今回の旅の目的は、かまぼこ型倉庫について地元の方にいろいろとお話をうかがうことにある。

どうしてここ松代に、かまぼこ型倉庫が普及するに至ったか、それはこんな感じのようである。

皆さんご存じの通り、ほくほく線の開通までには多くの困難があった。地質的な問題で工事は難航を極め、掘削途中のトンネルの穴を補強するために使用したのが、アーチ型の鉄骨だった。この鉄骨が何を隠そうかまぼこ型倉庫の原型だ。

中屋工業の布施さんの談によると、廃材となったこの鉄骨が持ち込まれたとき、どうにかこれを再利用できないかと考えたすえひらめいたのが、かまぼこ型倉庫というわけである。さらに北魚沼郡の鉄工所でもほぼ同時に同じことを考えついたようだ。製品化にしたのは彼らであるが、一番はじめに作った人は結局分からなかった(どなたか知りませんか?)。

しかし不思議なことに、近県のトンネルの多い豪雪地帯には見られないようなのである。ところが、そこから何万キロも離れたところで僕はまたこの倉庫に出会うことになる。

その夏の終わり頃、僕はスイスのフリーボという小さな町にいた。その町の画廊で行われる展覧会のためだ。設営を手伝ってくれたのはPACという地元の若いアーティストのグループで、静かで上品な町を常にひっかきまわす頼もしい存在だ。彼らは自分らのスペースを持っていて、是非来いというのである晩遊びに行った。わりと町の中心部にあり、事務所兼アトリエなのだが、部屋の中は、それはもうぐちゃぐちゃなわけだ。

道に面しているところはショーウインドーで、常に何かしら展示してある。スペースの前に椅子を出し、みんなでビールを飲んでいるとき、遠くの駐車場の奥にふと目にとまるものがあった。

そう、見覚えのあるかまぼこ型の小さな建物だった。

彼らにこの建物のことを色々聞いたが、「そういえばこんなもの前からあったっけ、もつと山の方にもあったような無かったような」と、その程度の返事しか得られなかった。薄暗がりの中の総ステンレス製のかまぼこ型倉庫の放つ鈍い光を見ているうちに遠い松代を思い出していた。

あの初夏に松代で出会った人々と話をするうちに、かまぼこ型倉庫に秘められた松代の近代史が浮かび上がってきた。トンネルと豪雪という条件がひとつになったとき、それは生まれたのだろう。さらに付け加えると、農耕の機械化や自家用車の所有で、車庫や倉庫が必要になってきた背景もあるだろう。また雪下ろしという重労働を軽減する倉庫の普及は、地域の共同体のあり方の変貌にも関わってくることが見えてきた。