性格を決めつけたくない

 人の性格はわからないものでしょう。
 あの人はこういう性格だったんだろう、とかってよく言ってしまう。筆者も実際のところ、第一印象で人の性格や、時には生い立ち、境遇まで考えてしまったりする。でもこれってどうなんだろう。
 今や性格は簡単に定義される。例えば人間関係で悩んだ時、インターネットで検索すればきっとわかりやすい言葉でその状態のことや理由を教えてくれるだろう。だいたい答えは自分でわかっているのに、ネット上で誰かが定義してくれるとなぜか安心する。でもそんな自分を恐れるのも事実。
 大正から昭和の時代を生きた批評家の小林秀雄は、性格は行動であるという(「性格の奇蹟」『文藝春秋』1926)。今は新潮社の全集第1巻に入っています。

芸術家にとって、人間の性格とは、その行動であって断じて心理ではない。

このこと、大事だと思う。「芸術家にとって」と前置きされているけど、筆者は普段の生活でこのことがよぎる。人の気持ちって、そんな簡単な言葉でまとめられるのか、と。
 もちろん困難な状態を言葉で表し、まとめることは、今の状況を改善することに活きたり治療になったりする。だからそれも一つの必要なことではある。でも性格と言葉、性格と行動ということについて考えることも大事なことだと思うのです。
 性格が行動ってつまりなんだろう。普通性格を表すのは言葉。私はこういう人間です、とか、あなたの性格はこうだ、とか。〈性格とはその行動である〉という考えは、その普段当たり前になっていることへの疑いから生まれるんだと思う。つまり性格を言葉で表す、表せる、ということを絶対視しないという姿勢。
 人間の気持ちとか心ってわからない。自分でもわからないし、他人でもわからない。わかるところもあるけど、人と付き合うと、付き合っていけばいくほどわからないなと思う。わかろうとすること、寄り添おうとすることは大事。でも全部がわかる、わかったと思うことは、なんか哀しい。
 決めつけたくないなと思う。一つの言葉でその人全部のことを決めつけたくない。その人がどんな状況にあったのか、どんな気持ちで生きていたのか、選択したのか、そんなことは外からはわからない。もしかしたら言葉というものでは説明はできないのかもしれない。ただあなたの残したものは素晴らしかった。人の心を震わせた。最期まで立派だった。そう思う。
 ただそれだけでいいんじゃないか。そしてみんなが自分の心に生じた気持ち、それがほんとうのところなんだよ。

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