ちいさなあかり

メジロに親近感がある。
「メジロに親近感がある」ことに、今日たまたまメジロのイラストに出くわして気がついた。メジロへの親近感があまりに当たり前で、しかし久しぶりにあの黄緑色の羽と黄色いお腹と白い隈取りを見て、突然と気がついた。

幼い頃、母の集金のパートに付いて回っていた時期がある。一時期だったか、何年か続いたのかわからない。小学校低学年ぐらいだったと思う。

わたしには姉がいて、同じアパートに同い年の幼馴染みとその兄妹もいたので、あまり一人で留守番をする必要はなかったはずだから、好きで付いて回っていたのだ。歩くのは昔から好きだった。

いろんな家を訪ねた。勧誘などでなく集金なので、みんな「はいはい、どうも」「今日も一緒に回ってるの、えらいね」と優しかった。できるだけ知らない人に関わり合いたくないわたしにとって嫌な思い出でないから、そのはずだ。

もちろん小学生が付いて回れる範囲なので家の近所から隣町あたりまでだったが、今思うと、どこの家を、どんなルートを通っていたのか定かではない。
山の中にあるわたしの町の裏道は、昼間でも薄暗く不気味で、一人で歩くことは許されなかったし、そもそも歩く気になれなかった。本当は聞いた話を実体験のように錯覚してしまったのではないかと思えるほど、思い出も薄暗く曖昧だ。学校が終わってから夕方になる前に回っていたからだろうか。それでもわたしはあの時間を、今なお忘れずにいる。

「メジロの家」は集金ルートのひとつだった。小さな門を開けて母がチャイムを押し、おばさんが戸を開けてくれる、メジロは玄関先の、白い木で組まれた小さな鳥籠の中にいた。集金のやりとりの間、わたしはメジロを眺めた。集金が終わってもメジロを眺めていたかったが、またねと言って名残惜しく玄関の引き戸を閉めた。

「メジロの家」の近くに「竹細工の家」がなければ、わたしはもう少しメジロにこだわっていたかもしれない。裏道の道路沿いの広いガレージでおじいさんが竹細工をしていた。竹を細く細く割いて、籠を作っていた。「竹細工の家」は、集金する家ではなかった気がする。でもわたしは毎回そのガレージの中に入り、細く細く割かれ、編まれていく竹を、眺めていた。職人よろしく愛想のいい方ではないおじいさんだったが、そんな作業に見惚れるわたしに時々「ほれ」と、竹の節や不要な切れ端をくれた。
道端の石ころを、ガラスの欠片を、きれいな葉っぱを、後生大事に持ち帰り宝物箱に詰め込む習性のあるわたしにとって、それは「お母さんと集金に回る仕事」のすばらしい報酬だった。

もうひとつ報酬があった。
「メジロの家」と「竹細工の家」の通りに、「古びた牛乳屋さん」があった。牛乳。わたしのエリクサー。今でも冷蔵庫には必ず一パックは常備され、三分の一ほどの重さになると焦燥感に見舞われる。それほど愛する牛乳が、なんとこの店では、瓶で売られていた。給食でもパックでしか飲めない。びんのぎゅうにゅう。歩き回った喉に、エリクサーが流れ込む。なめらかな瓶の口は、牛乳の口当たりもなめらかにするようだ。毎回買ってもらえるわけではなかったから、竹の切れ端のように、とっておきの、すばらしい報酬だった。
母にとってわたしが付いて回ることがありがたかったかは、つまりわたしなりの「仕事」だったのかは、分からないけれど。

それから家へ戻るために、ぐるりと長い階段を上がっていったと思う。その道の途中に最後の集金場所「貝殻の家」があった。「役に立たないが素敵なもの」が大好物のわたしにとって、下駄箱の上にレースを敷いて並べられたいろんな貝殻、あしらわれたガラス玉、手に余るほど大きな巻貝!は、メジロや竹細工と同じように、眺めるに値した。貝殻の数々を毎回手に取って、耳に当てて波の音を聴きながら集金のひと時を過ごした。

母が集金の仕事を辞めるとき、おそらくあまりに飽きずに眺めるわたしに「貝殻の家」のおばさんは、その巻貝をくれたのだった。「うちの子どもも大きくなったし、そんなに好きなら」というようなことだったと思う。わたしをとんでもない貝殻っ子か、海に連れて行ってもらえない山の子(わたしの町は山の上だが、海もすぐそこにあるのでそれは大変にかわいそうなことだ)と感じたのだろう。思わぬ退職金だった。大きな巻貝は宝物箱からはみ出すので、巻貝用にぴったりの箱を台所から調達して、わたしは何度も取り出しては部屋でひとり、巻貝の音を聴いた。姉に目撃され、からかわれたりもしたが、わたしには大切なことだった。せっかく歩き回った退職金として海の音が手に入ったのだから、その音を聴かずにはおれない。

竹も巻貝も宝箱に納めたが、メジロは連れて帰れるものではない。細く組まれた鳥籠越しに、触れることもできなかった。それでもメジロはいろんな素敵ながらくたと一緒に、確かにわたしの宝箱に入っていた。

薄暗い輪郭に沈みそうな思い出の中で、あの黄緑色の小鳥は、わたしが忘れないよう小さく鮮やかに色彩を放っている。心の中の小道の途中に黄緑色の命が灯っていて、母と回った夕方前の風景を、親しみをもって思い出させてくれるのだ。