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国文学研究と国語科教育の架橋モデル

菊野雅之

「架橋の会」という勉強会を作りました。八木雄一郎さん、有馬義貴さん、井浪真吾さんにお声かけをして、古典学習について勉強する会です。何回か話合いを重ね、まずは井浪さんのご著書『古典教育と古典文学研究を架橋する』(文学通信、2020年)を読んで、合評会をやろうということになりました。7月2日の夜に4時間弱の合評会を行い、そこでの議論をそれぞれまとめ、noteに書いてみようということになりました。トップバッターは私(菊野)となります。ご笑覧ください。


古典教材研究を全面に押し出した著作が商業ベースで流通している。そんな本はこれまでなかった。それは文学通信という出版社のマネージメントでもあるだろうが、それでもこの本を最初に目にした時は、ある種の衝撃というか、敗北感があった。

それは、こういった仕事が今後求められることを私自身もわかっていたことだし、実現したい仕事だと思っていたからだ。国文学研究の方法論を十分に習得した者が、学習論について議論する。あるいは、国語科教育学を十分に修めた者が、国文学研究の海に飛び込んでいく。国文学と国語科教育学を架橋すること、互いをリスペクトすることがこれからの「ある種の雰囲気」(難波:2021)を醸成していくための戦略として必須であり、そのモデルの一つとなるのが本書である。

「ある種の雰囲気」とは、難波博孝先生がシンポジウム(全国大学国語教育学会オンライン大会シンポジウム「古典の学びを国語科教育学はどのように捉えるのか」、2021年5月29日)で示された古典教材の選定が行われる際の見えないステークホルダー(利害関係者)のことである。この「ある種の雰囲気」をいかに戦略的に自覚的に作り上げていくかという視野が古典学習を論じる際に必要となる。例えば、「入試が変わらないのだから、古典学習も現状の方法論でいかざるを得ない」という声も、何十年もの戦後の高校教育、大学入試の経緯の中で醸成されてきた「ある種の雰囲気」であり、これを変革するのは一朝一夕ではできない。長い時間をかけて、そういった状況を変えうる人材育成や発信が必要である。その人材育成や発信を担う我々が、新しい「ある種の雰囲気」を形成しようとする中長期的戦略を立てない限り、未来に変化はないだろう。

本書は生真面目な本だ。『宇治拾遺物語』や関連する先行研究を十分に網羅しつつ、そのテクストの性格を明らかにし、竹村信治や益田勝実の古典学習論をも援用しながら、『宇治拾遺物語』の新たな教材論、単元案を提案する。国文学研究の土台から古典学習論を論じる際のモデルの一つになるだろう。

本書は『宇治拾遺物語』の語りの仕組みにこだわる。そして、その仕組みを解きほぐす発問を第三部で提案するに至る。それは読みの過程における「精査・解釈」あるいは「考えの形成・共有」の指導事項に対応する発問と言えるだろう。

ともすれば、音読・暗唱・品詞分解・現代語訳という読みのプロセスの序盤で留まってしまう学習の地点からは、遠い風景に見えるのかもしれない。だが、よくよく考えると、構造と内容の把握、精査・解釈・考えの形成・共有という読みの過程に沿った指導事項の配置は、小中高の新学習指導要領において一貫しており、それは古典を「読むこと」でも同様のはずである。なぜか古典の学習の時だけそのプロセスをたどれないことになっている。もっとも、すでに「精査・解釈」や「考えの形成・共有」に至る発問が学習の手引きには示されている教科書も少なくない。それについては本書でも分析されている。では、そのような手引きを無視してまで、従来型の授業が行われるのはなぜか。根は深い。

「入試」という長く続く制度によってしばられた学習内容、指導方法があり、そのために授業改善が進まない。その状況は先に述べたように一朝一夕では変わらない。だからこれからを変えるために、少しずつでもアクションをしていく必要があるのだ。

井浪さんの課題というよりは、今後共に解き明かしていきたいこと、あるいは、本書を読んで触発された問題意識を列記しよう。

1)その教材が学習者にとって読みたい、読まざるをえないものなのか、あるいはそのような態度に学習者を誘う設定や条件は何なのか、といった単元の導入段階の設定の開発が必要であること。

2)語りの仕組みを解きほぐす発問を可能とする傍注テキストの開発。原文すべてにスラッシュを入れ、品詞分解をし、現代語訳をする。そして、授業は終了。そういった授業を封じ、古典文学そのものを読む、楽しむことができる傍注テキスト、発問、言語活動、学習活動、設定、条件などをパッケージングした単元提案が必要。これは1)の仕事と同時並行で開発が必要だろう。

3)益田勝実の1950年代・1960年代にかけての変容における継承されたものと継承されなかったものの整理が必要であること。50年代、益田は近代文学を読み込んだ上で、それでも不十分なものを古典で補完するといった意味で、古典学習の価値を述べたが、60年代の古典教材での仕事には、近代とのつながりを意識した古典教材論は管見の限りはない。これはどういうことなのか。

井浪さんはある方から、本書のような内容で教材研究をしないとならないのであれば、だれも実践をできないのではないかと指摘を受けたという。それはその通りなのだろう。本書は、生真面目に国文学研究と正対し、その対話の中から結論を導き出す極めて丁寧な仕事だ。それを現場の先生方に求めるのは酷だ。もちろん、井浪さんはそういうことを、現場に提案しているわけではない。これらの仕事を国文学研究者、国語科教育学研究者、現場の教師、教科書会社等が力を結束し、あるいは、それぞれの仕事を分担しながら、架橋しながら進めていくべきだろう。では、どのように取り組むべきなのかは、本書のそれぞれの目次の役割を分解していけば明らかだ。国文学研究の知見からのテクスト分析。国語科教育学の知見からの教材および授業構想。互いがそれぞれに問いを発し、交流し、架橋する。その往来を可能とする運動体・共同体・プラットフォームを作っていくことが必要になっている。

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