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「親しむ」ことは「学習」の目的とすべきことか?

有馬義貴

2020年3月に刊行された『古典教育と古典文学研究を架橋する―国語科教員の古文教材化の手順―』(文学通信)、そのタイトルを拝見してぎくりとし、序章を拝読して冷や汗をかきました。自分自身、古典教育と古典文学研究との“往還”はしてきて、決して「自身のプロパーから発言するのみ」(13頁)ではなかったつもりと自己弁護をしたい気持ちもあるものの、「架橋する」ための発信をどれほどしてきたかと言われれば……。

実はちょうどその頃、中古文学会事務局から、シンポジウムのコーディネーターを、という打診を受けておりました。中古文学会では、2019年度秋季大会から4大会にわたって「古典の教育・普及」に関連するテーマでシンポジウムを継続的に実施する、という方針が既に決まっており、2020年度秋季大会においても、「これからの古典教育を考える」というテーマでシンポジウムを開催することになったのでした(*)。

著者の井浪真吾氏による現状把握や問題点の指摘は的確と感じられ、「文学系の学会で、「古典教育と古典文学研究を架橋する」必要性を説いていただく意義は非常に大きいだろう。竹村信治氏が述べられ、井浪氏も繰り返されている「相互疎外状況」、その打開のためにぜひパネリストとしてご登壇いただけないか」などと思い描きつつ、しかし、井浪氏とは面識がなく、「あまりに唐突過ぎる話だろうか、どうしたものだろう」と、数日間、逡巡しておりました。ただ、著者プロフィールによれば、奈良女子大学附属中等教育学校の教諭でいらっしゃるとのこと、「自分の勤務先から徒歩2、3分のところにお勤めだなんて、こんな偶然があるだろうか、これはもう依頼せよということじゃないか」と、思い切ってご連絡を差し上げたところ、登壇をご快諾いただけたのでありました。このことを契機として、井浪氏と親しく交流をさせていただく関係になったという次第です。というわけで、ここからは親しみをこめて井浪さんと呼ばせていただきたいと思います。

さて、いま「親しみ」という言葉を用いましたが(あまりにも強引な結びつけ方で恐縮です)、御高著を拝読する限り、井浪さんは、「古文テキストの価値」が「先験的に認められ、これに「親しむ」ことを目的とし」(12頁)た学習、あるいはそれに終始する学習について疑問視されているように映ります。学習指導要領における扱いを含め、「古文テキストや伝統的な言語文化」は「アプリオリに価値が認められ」がちであること、「それゆえ、古文テキストや伝統的な言語文化は教養として伝えられるだけで、それらがどのようなテキストで、どのようなモノやコトが語られているのかなどについて読まれることが」(15頁)ない、ということや、「生徒たちが物語内容を面白く身近に感じるということだけが「親しむ」とされ、古文テキストの「世界解釈、世界像構築」などは読まれないということ」(168頁)などへの、批判的なまなざしがみられます(有馬注:太字部分、原文では傍点)

「価値」ある「教養として伝え」、「親しむ」ということを求めるその前に、「読む」ことなどへの意識があるべきだと、私自身も強く思います。対象から何を学びうるのか、対象について学ぶことを通してどのような資質・能力を身につけうるのか、養いうるのかなど、まずはそのことが意識されるべきでしょう。対象にどのような「価値」を認めるのか、対象に「親しむ」のかどうかは、学習を経て各自が判断すべきこと(あるいは、結果的なものとしてあるべきこと)であり、やや挑発的に聞こえてしまうかもしれませんが、強要すべきことではないような気がいたします(個人的な思いとしては、古典文学に「親しむ」人も多くいてほしいところではありますが、それを学習として求めるべきかは別の問題と考えます)。「親しむ」には至らなくとも、対象から学ぶことがあったり、対象について学ぶことを通して身につけられた資質・能力などがあったりしたとすれば、それは学習として十分に成立しているといえるのではないでしょうか。また、対象から学ぶことなどがあれば、「親しむ」には至らなかったとしても、その対象へのリスペクトは生まれうるように思われるのですが、それでは不十分なのでしょうか。

井浪さんが述べられる、「テキストに記された、人間、社会、自然に対する書き手の対話過程や、テキストの継承過程などに目を向けて、それらを動的に捉えようとする試み」(15頁)こそが、古典学習には必要なのだと思います。学習者に求めるべきは、「古文テキスト」という対象に「親しむ」ことよりも、「古文テキスト」に「親しむ」人々、また、「親し」んだ人々がいるという事実を(あるいは、「親し」んだ人々ばかりではなかった可能性も含めて)理解し、そのことの意味や要因などについて考えることなのでしょう。すなわち、ある「古文テキスト」について、成立時から現代に至るまでに、それに「親し」んだ人々がいたということを意識し、それがどのように「親し」まれ(てき)たのか、また、そのように「親しむ」人のいた「古文テキスト」とは、「どのようなモノやコトが」、どのように語られたり書かれたりしているものなのか、などと考えてみる、ということです。少しずれるところもあるかもしれませんが、井浪さんが主張される、「古典教室を公共的空間とする」(277頁)こと、「他者の声に耳を傾けられるようになること、他者の〈世界〉を引き受け自らの〈世界〉を豊かにしていくこと」(282頁)などについて、私なりにそのように解釈してみました。

学習指導要領の解説には、「古典の世界に親しむとは、古典の世界に対する理解を深めながら、その世界をかけ離れたものと感じることなく、身近で好ましいものと感じて興味・関心を抱くことである」という文言がみられます。勿論、そのように感じる学習者がいてよいと思いますが、一方で、なおも「かけ離れたものと感じる」が(あるいは「身近で好ましいものと感じ」ることはできないが)、そのようなものへの「理解を深め」ることによって見えてくるものがあった、という学習者がいてもよいのではないでしょうか。現代とはことばもその他の文化も異なるところの多い時代に生まれたものなのですから、そこに自分との隔たりや異質性を感じることはむしろ自然なことのように思います。隔たりや異質性を感じた上で、そのような対象からも学びうることがあると理解していく方が、学習のあり方としても自然なのではないでしょうか。古典が苦手だという生徒をなくそうと躍起になるよりも、古典が苦手だという生徒たちにとっても有意義な学習の機会を提供することをこそ目指すべきなのだと思います。

八木雄一郎さんがTwitterで、「国語の授業は「楽しむ」ことをもっと大事にしていくべきだ」(2020年1月12日)と述べられていました(また、2020年4月には町田守弘氏『国語教育を楽しむ』(学文社)も刊行されました)が、上述のような学習の機会の提供は、「古典を楽しむ」というより、「古典学習を楽しむ」ということを目指したものだと換言できるかもしれません。勿論、古典文学作品自体を楽しむこともあってよいと思いますが、“古典文学作品に関する学習”を楽しむということもまた、あってよいのだろうと思います。そして、「古典文学研究」は、「古典文学」を読んで楽しむというだけではなく、「古典文学」をさまざまな角度から研究して楽しむものでもあるという点で、「古典を楽しむ」ことを目指す教育ばかりでなく、「古典学習を楽しむ」ことを目指す教育に寄与しうるところも少なくないのではないか、とも思われてきます。「古典教育と古典文学研究を架橋する」ための手がかりの一つがそこにありそうな気がいたしますが、そのことについてはまた機会をあらためて考えてみたいと存じます。

井浪さんの御高著のごく一部を取り出し、自分の興味関心に引きつけて述べる形となってしまいました。ご容赦ください。

*中古文学会の機関誌『中古文学』第107号(2021年5月)に、パネリスト各氏の基調報告にもとづく御高論(井浪真吾氏「古典教育という営為―国語科教員の立場から―」、中村佳文氏「うたを重ねる―和歌短歌・和漢比較教材とメディア文化―」、吉井美弥子氏「古典の魅力を発見させること―研究は教育に活かせるか―」)と、拙稿(「趣意」・「総括 教育全体の中で古典文学は何を担いうるか」)が掲載されています。

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