「プライド」の取扱いにご注意を

 「プライドが高い」という言葉の持つイメージは,往々にしてネガティブだ.

 「アイツは『プライドが高い』.」と話すとき,大抵の場合「アイツ」が良い印象で語られることは極めて稀である.
 では一方で,「アイツは『プライドが低い』.」と話す場合,この「アイツ」はプラスの印象で語られているのだろうか.経験上,否である.
 字面上,真逆の意味として捉えられて当然なはずの人物評が,なぜかどちらもマイナスの印象を与えてしまうのである.

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 先日,合唱団時代の2つ下の後輩に招かれ,飲み会に参加してきた.彼らは去年末の演奏会を無事成功へと導いた,卒団間もない後輩である.
 酒を酌み交わしつつ,演奏会の裏話を我々に赤裸々に語ってくれた.どうやら彼らの代が主導となる定期演奏会も,例年の演奏会同様,準備や練習がかなり骨の折れるものだったらしい.特に先輩後輩の人間関係にひびが入ることもやはり例年通りあったようで,そのケアも大変だったようだ.
 そのエピソードを語る際に,「後輩はすごく意志が強いけどかなりプライドの高い人間が集まっているので,ちょっとしんどかった時期もあったんですよね」と話していた.

 この場合の「プライドの高い人間」は恐らく,後輩たちが彼らにとって少々癖のある存在であったことを形容する言葉のはずである.

 今度は仕事に関する話である.私は今ITエンジニアでwebアプリの新規実装・改修を行っている.今いる会社は私のことを技術者として雇っており,当然私もプロとして,未熟ながら自分の技術力を研ぎ澄ましてチームに少しでも貢献したいと思っている.やはり良い仕事を行う上でも「プライドを持って」仕事に打ち込むべきである.....

 この場合の「プライドを持つ」とは,むしろ奨励すべき精神的態度として受け止められることが多い.

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 ここまで具体的な事例を多く上げてみた.ここからは個人的な思想になってしまうが,私は「プライド」には大きく2種類あると考えている.一方は外部発散型,もう一方は内部収束型である.

 「外部発散型プライド」とは,自分自身ではなく他者の存在があってはじめて成立するプライドのことである.自分の優位性・有意義性・存在価値を他者との比較によって求め,形成されるプライドである.
 特徴的なのは,何らかのきっかけで卑屈に感じたり劣等感を抱いたり抑圧を覚えたりするなどといった,ネガティブな感情が発生した際に,自分をどうにかして保護するために発動した精神的モーションの副産物として生成されることが多いということだ.

 分かりやすいケースを挙げるならば,「私は有名な○○大学の卒業生だから,こんなつまらない仕事をする身分ではない」「私は彼よりも頭がいいはずなのに,彼がこのプロジェクトのリーダーなのが気に食わない」「先輩は実力がないくせに威張って私の意見をすぐ踏みにじってしまう」といったものである.

 こういった場面に直面した際に,そこから発生されるネガティブなプレッシャーから自己防衛を試み,その副産物として外部発散型プライドが生成される.前述した「アイツは『プライドが高い』人間だ.」という場合の『プライド』は,この「外部発散型プライド」である可能性が高い.

 このプライドは他者に対して攻撃性をもつ.なぜなら,自尊心をこれ以上傷つけまいとするために,仮想敵として自分以外のもの(相手・社会など)を設定し,その仮想敵よりも自分の方が明らかに優位性・正当性をもつものだと誇り高く宣言しようと莫大なエネルギーを放つからである.一見このエネルギーは当人を奮い立たせるものとして有用性があるように思えるが,仮想敵に位置付けられた対象は少なからずダメージを負う.
 物理学の基本原則に「作用・反作用の法則」というのがあるが,これは人間対人間あるいは人間対社会でも成立しうる.外部発散型プライドを隠し切れないまま放出させてしまった人は,長期的視点から見ると何らかの損失を負ってしまうのだ.例えば他者からの信頼を失ったり,仕事を失ったり,重要な人間関係を断たれてしまうといったことである.

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 もう一方の「内部収束型プライド」は,自身の存在を自分自身が意識的に認めてさえいれば成り立つプライドである.自分の優位性・有意義性・存在価値を他者との比較によって求めるのではなく,自らの実績・成果や軌跡,姿勢に求めるものである.このプライドは,先ほどの「外部発散型プライド」とは異なり,副産物というよりも自らの意志で生み出すものであるという認識が正しいだろう.
 具体例を挙げるならば,「自分は○○という仕事に誇りを持っているから,今やっていることをプライドを持ってやり遂げなければならない」「かつての自分はここまでしかできなかったけど,自分は能力が高いはずだから,今頑張ればここまで到達できるはずだ」といったところだろう.

 この場合,他者や外部環境が意識に上ることはなく,自分が正しいと思うこと,良いと思うこと,できる・やりたいと思うことのみに焦点が当てられている.同じプライドといえど,先ほどの「外部発散型プライド」と比べてかなり異質なものであることは明白だろう.もし誰かに「お前もう少しプライド持てよな」と言われたとき,ほとんどの場合はこの「内部収束型プライド」である可能性が高い.

 私自身の浅薄な経験から言うと,「外部発散型プライド」を自分の支配下に置いて暴走しないようコントロールしつつ,「内部収束型プライド」を起爆剤として上手に利用すると,妙なストレスを生み出すことなく物事がうまく進みやすくなると考えている.

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 もちろん,全てのプライドが上記2つのどちらかに必ず分類されるわけではないことは重々承知しているつもりだ.ただ,普段あまり意識せずに使ってしまう「プライド」という言葉に対して論を深めることは,極めて人間的な営みである.

 同じことを言っているはずなのに文脈や状況によって正反対な意味をもち,しかもその意味がコンセンサスとして誤解なく受け止められるという一見不可解な性質をもつ言葉は,意識的に探してみると案外見つかるものである.
 その言葉に対して再度じっくり向き合い,自分なりの分析ができると,今後の生き方の指針となるようなヒントに意図せず出会えるかもしれない.

 

 そんなルネサンス的邂逅を今後も自分は大切にしたい.

いつもお読みくださり、ありがとうございます。今後とも、ふと思い立ったときにお立ち寄りください。 何か一つでも誰かにピンと来るような言葉を、これからも紡ぎだせるよう精進します。