「どっちでもいい」は,どうして腹立たしく罪深い言葉なのか


 彼女が参加した女子会での一幕である.


 同じ会社での女子会は近況報告に始まり,新しい話題も飛び出すので途中までは楽しめるものの,
 1時間も経つと,大抵の場合は他人の悪口合戦に収束してしまうものらしい.

 あたかも前から決まっていたかのようないつものシナリオに彼女も少々辟易していたところ,ある女性が
「自分の彼氏は何を聞いても『どっちでもいい』しか言わない.週末は何をしたいか尋ねたときも,今日の晩ごはんで何を食べたいか聞いても,『なんでもいいよ』としか言わない」
とこぼしたという.
 「どっちでもいい」は非常に便利な言葉であるがゆえに,日常的にあまり深く考えずに言いがちな言葉であろう.
 その言葉が,女子会での愚痴に顔を出してしまうほど怒りを誘発させてしまうらしい.

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 「どっちでもいい」という言葉に対し無性にイライラを覚えるケースは,多くの人が一度は経験するものなのかもしれない.
今日着る服としてどちらを選べばよいか,次の集まりはフレンチにしようかイタリアンにしようか,ゴールデンウィークの旅行先は関西と九州のどちらにしようか…
 こういった他愛もない質問に対し,「どっちでもいい」と返されると,訳もなく寂しく悲しいような,場合によっては怒りさえ覚えるようなことがある.
 しかし一方で,同じようなことを誰かから問われたときに,「正直どっちでもいいよなぁ」とついその言葉通りに返答してしまうことも多々あるのではなかろうか.

なぜ「どっちでもいい」という一見当たり障りのない言葉によって,ここまでネガティブな感情が生じうるものなのだろうか.そして,それを経験的に分かっていながら,なぜ「どっちでもいい」という言葉がふと口から出てしまうことがあるのだろうか.

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 ここでは大きく2つの観点から説明したい.
「意思決定コスト」と「共犯者意識」である.


 人間は基本的に,物事を決めたくない生き物である.「意思決定コスト」が生じる状況を,極力回避したいのだ.
 何かを決めようとする際に生じる心理的負担は想像以上に大きく,1日に意思決定を行える数は予め決められているとさえ主張する人もいる.
 著名な起業家が同じデザインの服しか着ないことで,意思決定の数を減らしているという事例もある.世界で活躍しているスポーツ選手が,試合に出場するまでのルーティンワークを完全に固定化することで,余計な心理的コストを負わないようにするというケースもある.


 「意思決定すべき状況からはなるべく逃れたい」という人間の性質が仮に正だとするならば,たとえ悪気のなく小さな問いかけだったとしても
「正直どっちを選んでも結果に大差ないのであれば考えたくない」
あるいは
「今は別のことで忙しいから些末なことに時間を使って決めたくない」
と,ある種の拒絶反応を示すのも無理はない.
案件の大小が重要なのではなく,そこに自分の意思決定というアクションが介在するのが負担だからである.


 一方で,恐らく問いかけをする側にも「自らで最後の判断を下したくない」という深層心理が実は働いているのではないか,という見方もできる.
 あくまで個人的な経験の話だが,「『どっちでもいい』と言う奴はキライだ」と公言している人に限って,自分が問われる側に回ると「私はどっちでもいいなぁ」とよくつぶやいているような気がする.
 一見矛盾しているような振る舞いに見えるが,これはむしろ自然なことだ.その人にとって意思決定によって生じる心理的負担が,他の人よりも比較的強く感じられてしまうからである.
 どんなに小さい事柄でも第三者に意見を仰ごうとし,一方で自分に決断の主導権が回ってきそうになるとふんわりとした発言にとどめることで,意思決定を行う場面を無意識的であれ避けようとするのだ.

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 さて,「どっちでもいい」にまつわる心理を考察するのに,「意思決定コスト」の観点だけではあまりにも説明不足だろう.もう一つの「共犯者意識」の観点からも少々説明を加えたい.


 ここ数十年の間に簡単に膨大な情報へアクセスできるようになったので,人間とは知識を駆使して合理的な行動を優先する生き物であると錯覚しがちだ.しかし,多くの人は基本的に感情優先で行動する.
 仮に合理的に意思決定するのが各人の効用に直結するのであれば,そのテーマに関する情報を徹底的に調査し,むしろ他の人の主観的意見を一切摂取することなく判断を下すはずだろう.しかし,現実には相当数の人が誰か他の人の意見を渇望している.
 恐らくこれは「共犯者」を探す心理にも根差しているのかもしれない.


 人間は社会的動物だと言われている通り,知識であれ感情であれ,自分以外の誰かと何かシェアすることで喜びを感じる生き物である.
 例えばもし旅行先を選ぶとき,自分一人で目的地を決めて楽しむよりも,他の誰かとワクワクしながら一緒に決めて楽しんだ方が幸せだと感じる人が多いのではないだろうか.
 つまり,自分だけで決断した結果が良い方向に進んだことによる喜びと比べ,自分含む複数人で決定した結果が良い方向に進んだときに得られる喜びの方が,格段に大きいのである.

 この,他者と一緒に一つのことを行うことで生じる快楽が「共犯者意識」の正体である.多かれ少なかれ,人間にはこの意識が備わっているからゲームという娯楽が成立しうるし,近所の公園で井戸端会議が催されるのである.


 この観点から見てみると,「どっちでもいい」と言われるということは「共犯者」としての誘いを無下に断られるのと同じだという見方が出来る.
 たとえ第三者から見れば些末なことのように思えることでも,「○○と××,どっちがいい?」と尋ねた本人には,「この意思決定案件をシェアして,一緒にワクワクしたい」という隠れた意図も実はあったのかもしれない.
 意思決定のイニシアチブをただ渡したのではなく,単なる純真なお誘いのニュアンスも含んでいる可能性があるということだ.

 これに対して,「どっちでもいい」と回答することは「勧誘の拒否」を意味する.当然お誘いをした側は相応に傷つき,ぶつけようもないネガティブな感情を抱く.
 より強い表現で換言するなら,この場合の「どっちでもいい」とは「どうでもいい」と文脈上同義と捉えられてしまうのだ.

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 以上2つの観点で考察してみたが,やはり些細な質問であれ「どっちでもいい」と回答することは,あまり良い選択とはいえない.
 シンプルで便利だが時に冷酷な刃となりうるこの言葉によって,無用な怒りを買う必要はない.

 では,どうすれば波風立てずに対処できるのか.
 私は日頃から必ず何か具体的な回答をしようと心掛けている.と同時に,その際に脳内リソースを極力多く消費しないようにしている.

 クローズドクエスチョンであれば大体一番右側を選ぶし,オープンクエスチョンではそのときに心に思い浮かんだものを咄嗟に言うのだ.
 そもそも,当人はかなり候補を絞ったうえで「どちらの服がいい」か聞いているのだから,何を選んでもだいたいは似合う.
 久々の集まりがフレンチではなくイタリアンを選んだばっかりに,場が白けてしまうようなことはまず起こりえない.

 どちらを選んでも結果に差異はさほど生じないのだから,尋ねてきた相手の背中をそっと押すようなイメージで,きちんと方向を示してあげればいいのだ.
 この少しの配慮だけで,血の通ったコミュニケーションは十分に成立しうる.
 些細に見える返答が,相手にとって「意思決定コスト」を軽減させ,「共犯者意識」を芽生えさせる契機となればいいだけのことなのだ.

いつもお読みくださり、ありがとうございます。今後とも、ふと思い立ったときにお立ち寄りください。 何か一つでも誰かにピンと来るような言葉を、これからも紡ぎだせるよう精進します。