忙しい日常に,ふと訪れるノスタルジア

 「過去にしがみつくな.今を一生懸命に生きろ」

 …巷にこのようなスローガンがよく氾濫している.私もこの殊勝な精神的姿勢にはある程度憧れを抱いており,追い求める時期があった.
 しかし最近,この自己啓発チックな言葉とは裏腹に,時折私は時間を忘れて,少年時代の思い出に耽ることがある.

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 先日twitterで,懐かしいCMや人気番組の主題歌を延々と流すbotを偶然見つけてしまった.
 興味本位で覗いてみると,なんとそこには私が小学生のときに晩御飯を食べながらぼんやり見ていた映像が流れているではないか.
 よくこんな昔の映像をバラエティ豊かに保存していたなぁ,と妙に感心してしまった.
 

 私は主にtwitterを情報収集のために使用することが多いが,そのbotが提供するコンテンツには無論これといって有益な情報はない.
 しかし,なぜかそれらの映像が,エモーショナルな部位の隙間にゆっくりとしみわたるような,温かな何かを柔らかに注ぎ込まれるような感覚をおぼえたのだった.

 「そういえば,あのときは学級委員長をやっていて,今では何とも思わないようなことで死ぬほど悩んでいたなぁ」
 「このドラマがやっていたときはちょうど受験勉強だったけど,意外と楽しかった思い出があるなぁ」
 などと,普段の私では考えられないようなノスタルジックな思いを抱かせるのだった.
 不覚にもそのbotから,いつもの刺激的な情報を収集することによってでは得られない,独特の充足感を得たのだった.

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 少々自己弁護のように聞こえるかもしれないが,私は別に「あの頃はよかった」というような懐古主義的思想を持っているわけではなく,むしろ過去よりも未来の方がきっと素晴らしい世界になっていくという進歩的思想の持ち主である.
 加えて,かつて「荷物としてかさばるしスペースを取るから」という理由で,学生時代の卒業文集や写真などをストレスなく捨ててしまえることも考慮すると,恐らく周囲と比較しても過去に執着がない方の人間ではないかとも自覚している.

 そんな性格をもつ私が,たまに懐かしい風景を見てひとときの安らぎを得てしまうことがあるのだ.
 過去に強い思い入れがないはずなのに,なぜ懐かしいものに惹かれてしまうことが時々あるのだろうか.

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 推測の域を出ないが,恐らく「自分は確かに,その瞬間存在していたのだ」という歴史的保証が欲しかったのかもしれない.

 人間は年を取るごとに多くの仕事に追われ,ゆっくりと時間を過ごす機会をみるみる失ってしまう.
 子供のころは飽きるほど時間があって,遊んでも遊んでも時間は余り,むしろクリスマスや誕生日が待ち遠しいとさえ思える時代を過ごしていた.
 時は経ち大人になり,社会と関係を持つ機会が加速度的に増えていくと,知覚できる範囲が比べものにならないほど大きくなる一方で,様々な外部的役割を持つことによってオリジナルな時間を知らず知らずのうちに喪失していく.

 表面上の肩書は増えていくが,それに反比例するかのように自らのアイデンティティがみるみる剥がれ欠落していくのを力なく眺めるしかなく,掴みどころのない漠然な不安を感じてしまう.


 そのときに,こうした懐かしいCMなどの映像が,忘却の彼方にいた昔の自分を突如引き戻してくれることがある.
 「世界5分前誕生仮説」を完全に反証することは難しいかもしれないが,確かに10年前に,このドラマが当時同級生の間で話題になったことは鮮明に記憶していたりするのだ.
 自分が兄弟と取るに足らないことで喧嘩して親に叱られていたその瞬間,TVで能天気な中古車販売のCMが流れていたことはなぜかはっきりと覚えているのだ.

 一つ一つはショーモナイ思い出の一つにすぎないのかもしれないが,これらの何でもない日常の断片的記憶が,自分のアイデンティティを密かに支える一つのピースになっているのだろう.
 無意識に刻んだ頼りなく不恰好な轍が,奇しくも自分自身の存在証明たりうるのだ.

 コンピューターは,データが誤りなく正常に伝送されていることを裏付けるためにビット演算を行う.
 我々も同様に,今の自分がちゃんと年齢分の人生を歩んだうえで現在に至ることを証明するために,こうした人間的演算を定期的に行っているのかもしれない.

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 地元の人に長い間愛されている定食屋で,今ハヤリの音楽を流すお店は少数派だ.長年繁盛しているこじんまりとしたお店で流れているのは,たいてい森高千里や中島みゆき,山口百恵にチェッカーズである.
 哀愁漂う「Lemon」が流れるオシャレな店ももちろん素敵だが,長きにわたり多くの人生を見守ってきた名店で流れるのは,決まって「渡良瀬橋」の方だ.

 こうした懐かしい音楽は訪れる人のノスタルジックな思いを心地良く喚起させ,定番メニューの優しい味と混ざりつつ,忙しい日々でささくれ立った感情の小さな隙間を穏やかに埋めてくれる.
(私は残念ながら世代ではないが,上記のような名曲はなぜか我々にも懐かしい感情を掻き立ててくる.不思議な魅力を湛えているなぁといつも感じる)

 もしかすると,そこら中で流れていた往年の映像や音楽には,想像を超えたカタルシス効果があるのだろう.
 少々疲れたときは,こうした昔懐かしいものに触れて,かつての自分に思いを馳せつつほっと安らぐのもいいかもしれない.

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 常に新しく画期的なものをキャッチアップし続けることに刹那的な楽しみを覚える一方で,少年時代を印象深く彩ったモノに時々心奪われるようになったのは,ある程度年を取り,大人になって落ち着いてしまったからなのだろうか.
 それとも,あの頃からろくに成長もせず,子供のまま今に至るような「大人」になってしまったからなのだろうか.


これは正直定かではない.

いつもお読みくださり、ありがとうございます。今後とも、ふと思い立ったときにお立ち寄りください。 何か一つでも誰かにピンと来るような言葉を、これからも紡ぎだせるよう精進します。