人生の豊かさをはかる新たな指標として,「『ムダ』を愛せるかどうか」を提唱したい

 私の職業はITエンジニアである.
 常に効率化・最適解・生産性を追い求め,もっとパフォーマンスの高いロジックはないか,もっとムダを排除したコードが組めないか,業務効率化のために雑多な手続きの面倒くさいところをどうハックしようか,よりスムーズなチーム運用の仕方はないか….そんなことを日々常に考え,実装したり行動に移したりしている.
 ただ毎日こういうことばかり考えていると,効率化・ムダの排除こそ唯一無二の正義であるとついつい思ってしまいがちである.

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 しかし,自身を振り返ってみれば,ITエンジニアリングが是とするその考えとは裏腹に,残念ながら私の人生は実にムダばかりだった.
 学生時代に限っていえば,小学校のときは鉄道のことしか基本的に考えず,夏休みは鉄道図鑑を繰り返し読むことに時間を大量に費やした結果,最終週まで宿題に手を付けず後に地獄を見た経験がある.
 高校受験のときには,志望校がちゃんと決まっていたにもかかわらず,当時ブームとなっていたデスノートに思い切りハマってしまい,ペンディングにペンディングを重ねた結果,勉強計画が見事に破綻し不合格スレスレにまで追い込まれたことがある.
 大学受験は,文系学部志望にもかかわらず,受験科目ではない物理の面白さに気付いてしまい,苦手な国語や英語をないがしろにしたまま医学部志望の友達と物理に明け暮れ,2浪という大変不名誉な結果を招くこととなった.
 部活に話を移すと,中学校では明らかに運動の才能がないのにもかかわらず「足を人並みに速くしたい」というふざけた理由で陸上部に入部した.ここまでは良かったのだが,たまたまその部が県大会優勝常連で全国大会を狙う部だったために,あまりに練習がきつく死にかけたことがある.
 大学では自由な時間を謳歌するつもりだったのに,「歌がうまくて困ることはまずありえない」というこれまた浅薄な理由で合唱団に入団したものの,たまたまその合唱団が大学の名を背負うほどの有名な団で,気付いたら大学生活が超多忙なまま終わってしまった.
 思い返せば学生時代だけでも,実にムダで非効率な時間を過ごしたエピソードが次々に発掘され,どうして当時もっと時間を有効活用できなかったのだろうかと呆れてしまう.

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 しかし一方で,ムダという評価をそんな簡単に下していいのか,我々人間はムダがどうかを判断するのに十分な時間を有していないのではないか,とも思うのだ.

 自己弁護のように聞こえるかもしれないが,少しお付き合いいただきたい.そもそも何をもってムダとみなすのか,その判断基準は一体どこにあるのか.それを突き詰めて考え始めると,「あれ,ムダって結局どういうことなんだっけ?」とムダ自体の本質を完全に見失ってしまうのだ.


 一体どういうことなのか.ここで自分の経験をもう少し話したい.
 小学校時代に身に着けた鉄道の知識は,実は約15年後の鉄道博物館でのデートで思いがけず披露されることとなった.当時身に付けたムダ知識が,楽しいデートを図らずも演出してくれたのである.(そしてこれをきっかけに,彼女も新たに鉄道好きとなったのだった).
 高校受験で思い切りハマってしまったデスノートは,仕事場での飲み会で意図せず役立つこととなった.漫画の話題になったときに,たまたまデスノートに関するエピソードへと話題が移り,当時気に入っていたエピソードで同僚と妙に盛り上がってしまい,お酒を片手に楽しい時間を過ごせたのだった(そして,仕事でも良好な関係を築くのに一役買ってくれたのだった).
 大学受験は物理に没頭しすぎて結局第一志望に落ち,私立大学の経済学部に進むことになった.しかし,実は経済学は物理学を社会科学に援用することで発展した学問という背景があり,取っつきにくい経済学独特の概念を理解するのにかなり助かった.定期試験時には友人に頼りにされ,経済数学を教えながらご飯代を浮かしていたものだ.
 大学合格まで2浪もしてしまったが,予備校で出来た後輩(本来は「後輩」を作ってはいけないところだが)と今でも飲みに行くことがある.彼らは自分の道とはまた異なるキャリアを進んでおり,その話がかなり新鮮で面白く,なかなか良い刺激となっている.
 学生時代に陸上部のあまりにきつい練習で死にかけたこともあるが,そのときに得た筋トレの知識をフルに使い自分の体をそこそこスタイリッシュに維持できている(自分で言うべきことではないと思うが).
 たまに,ここぞというときの底力が必要になるときもある.そのときに「あのときの練習に比べたらこんなの屁でもない」と思えるので,悪夢のようだった陸上部の練習が今になって精神的スタビライザーの役割を果たしてくれている.
 大学では鬼のように合唱団生活に没頭したが,卒業後も歌が自分にとって重要なライフワークに位置付けられ,今でも週に少なくとも2回はカラオケに行って,自分の歌唱力に磨きをかけつつ楽しみながら歌っている.そういえば就職活動では,行く先行く先で地声をよく誉められた.何の武器も持ち合わせていなかった自分に内定が降ってきたのは,正直声のお陰だとも思っている.

 上記は全て,一見ムダだと思っていた時間を過ごすことで得られた重要な副産物であり財産だ.さて,これだけの財産を生み出してくれた時間は,果たしてムダと言い切れるのだろうか.ムダとみなせるだけの判断基準を,果たしてどこに求められるのだろうか.そして先述の重要な財産が仮にゼロとなったならば,果たして人生に今以上の彩りを与えることが出来るだろうか.もし出来ないのであれば,ムダとはとても言い切れないのでは無かろうか.

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 「ムダ」なことについてばかり考えを巡らしても議論が発展しないので,あえてここで一般的に「ムダでない時間」とみなされることについても考察してみよう.「ムダでない時間」とは大抵の場合,あらかじめすでにゴールが決まっていて,そのゴールに向かっている時間のことを指している.
 分かりやすい例でいうと資格勉強・受験勉強だろう.あるいは出世・昇給を達成するまでの仕事時間もそれにあたるかもしれない.明確な目標を達成するために,限られた時間をどのように過ごしていち早く達成するかを考え,実行する時間だ.


 もちろんその時間を過ごすことに決して否定的ではないし,その「ムダでない時間」を過ごすことは私だってよくあることである.しかし,その時間自体に私個人としてはあまり面白みを感じることが出来ない.
 なぜならすでに結末が決まっている上にロールモデルも既に多くいるため,リターンが十分に予想できる範疇にあるからである.もしかすると自分が資格取得や受験に少々抵抗感を感じてしまうのもそれが理由かもしれない.良い結果を手に入れたからといって,予想を大きく上回るうまみを得ることはほとんどないからである.その点がどうしても魅力に欠けてしまう.
 

 それよりも日常を過ごす中で,ほんの小さなきっかけでたまたま知ることになったモノに対し,相応の時間を使って魅力に気付き,没頭する時間がどうしても愛おしく思えてしまうものである.私にとっては,鉄道もデスノートも物理も陸上も合唱も,この観点において全て同じ文脈上で語られるべき,愛すべきムダな財産である.
 

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 もしかすると,人生に彩りを与えるようなものを獲得するためには,計画性や効率性とは程遠い体験を通してでしか得られないのかもしれない.
 いや,この場合は「獲得する」という表現自体しっくりくるものではない.「偶然出会う」という表現が感覚として正しいのかもしれない.少なくとも自分の経験上では,今も自分がワクワクできるものはある種のセレンディピティ的要素をはらんでいるからだ.最適解や効率化を追求するだけの営みでは,決して出会えないものばかりだからだ.

 限りある人生の中で,どれだけ多く「ムダなもの」に遭遇できるか,そして、「ムダなもの」に出会い没頭するほどの余裕をどれだけ持たせることが出来るか.

 もしかするとこれこそが,人生の豊かさを決定づける一つのファクターなのかもしれない.

いつもお読みくださり、ありがとうございます。今後とも、ふと思い立ったときにお立ち寄りください。 何か一つでも誰かにピンと来るような言葉を、これからも紡ぎだせるよう精進します。