幸せになるために「真面目」に生きる

 「真面目」という言葉に,ここまでネガティブなニュアンスがついてまわってしまったのは,一体いつからだろうか.そんなことを考えるようになったきっかけは,先日自分のtwitterのタイムラインに回ってきた投稿を見てからだった.

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 その投稿には,「真面目は損である」という趣旨で自らの体験談が書かれていた.『真面目』に学校に行き,与えられた仕事をひたすらやり,人に迷惑をかけないよう実直に生き,人の言うことはちゃんと聞き従う,そんな生き方をしていたのにもかかわらず,自分の望むような人生を送ることが出来ず悶々としている,もう『真面目』に生きることなど損でしかないから,こんな生き方なんか今すぐにでも辞めてしまいたい…そんな意味合いの投稿だった.

 その投稿を見たときに,真っ先に私が抱いた印象は,「そりゃここまで一貫して自分を騙し続けて不真面目に生きてりゃ,あなたの望むような人生なんか送れないだろう」ということだった.

 一見すると,とても冷徹で突き放したように聞こえてしまうだろう.しかし,そもそも「真面目」の意味をこの投稿者は本質的に勘違いしており,やはり何度その投稿を読んでも人生の不満を「真面目」という言葉にぶつけてストレスを発散しているようにしか見えないのだった.そしてその行為自体もやはり「不真面目」極まりない態度として自分の目に映ってしまったのだった.

 今回のnoteでは,まず「真面目」のもつ意味を少しずつ解きほぐしていき,自分の考える「真面目」とは何かを整理していこうと思う.

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 そもそも「真面目」を辞書で調べると,『①本気であること,嘘や冗談でないこと.②まごころをこめること,誠実なこと.』とある.
 さて,先ほどの投稿者の言い分が果たしてこの「真面目」にどれほど該当しているのか検証してみよう.

 その投稿者は,『真面目』に学校に行き,『真面目』に自分の役割を果たし,仕事を『真面目』にこなし云々…と言っているが,もし本当の意味で「真面目」にやっているのであれば,そもそも「真面目=損」という等式を導かないことは明白だ.


 どういうことなのか,具体的に見ていこう.「真面目」に学校に行っているのであれば,嘘やマヤカシなど一切なく,常に本気で学校の行事や勉強や部活に真剣に取り組んでいるはずだ.換言すると,「真面目」に学校に行っていたならばそこに大きなモチベーションがあり,自分の強い意志があり,それを実現するために学校へ通っていたはずだ.
 あるいは,将来○○になりたいなどという野望が仮になかったとしても,「学校で○○を勉強すること自体が楽しい」「○○部で活躍すること自体が楽しい」といった自己目的的行為に収束し,ひたすらそれに100%集中して「真面目」に通っていたはずだ.
 そして,仮に前述したようなことができていれば,不満など出てくるはずがないのだ.なぜなら,本気で,嘘や冗談なく,誠実に,学校に通っていれば,自分が納得するような充実した学校生活を送れていたはずだからである.


 もちろんこれは学校に通うことのみならず,人に迷惑をかけないよう「真面目」に生きる,「真面目」に今の仕事で働く,といったことにも当てはまる.
 前者の場合,人に迷惑をかけてしまうと自分の中での誠実さが揺らぎ,非常に居心地の悪い思いを抱いたまま人生を送ることになるので,常に他人のことを考えて献身する.「真面目」にそれが出来ているなら,他者に配慮するその行為自体がそのまま自分の幸せに直結しているはずである.
 後者の場合,今の仕事と真剣に向き合い働くこと自体が,自分にとっての誠実さであり,本気の生き方だと自覚しているのだろう.それが分かっているから「真面目」に働くことが出来るのである.
 つまり,本当の意味で「真面目」に生き,「真面目」に働いていれば,「真面目=損」というような考えにはまずなりえないのである.前述した通り,すでに今の選択で送っている人生がとてつもない充実感であふれているからである.では,なぜ「真面目=損」という考えをもとにしたツイートがなされてしまうのか.ひいては,なぜそういったツイートがたくさんのリツイートやファボを集めてしまうのか.
 それは多くの人が「真面目=外部から命令されたこと,言われたことをきちんとこなすこと」という誤ったイメージを持っているからに他ならない.

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 結論から言う.本来の意味では「真面目」と「従順」は全く異なる.場合によってはむしろ対立の意味すら持つ.本当の意味で「真面目」に人生を送っている人が,人や周りの言うことを無批判に聞いて従うわけがない.「真面目」な人は常に本気であり,嘘やまやかしを嫌う.周りの意見を一旦は聞くが,必ず自分の頭で考え正しいかどうかを判断する.もし正しければその人の意見を取り入れ活かしていくが,そうでない場合は一切聞き入れない.無論「真面目」とは本気なのである.表面上だけを形作ったような誠意のない言葉などすぐに見抜いてしまう.そして自分のやるべきことに「真面目」に向き合い,充実した人生を自分でつかみ取ろうとし,実際につかみ取ることが出来る.
 「真面目」な人は誠心誠意,相手と向き合う.ハリボテなどなく,虎の威を借りることもなく,等身大で相手と向き合う.どんなに相手が様々な錯覚を使ったところで,「真面目」な人には一切通用しない.何事にも曇り一片なく真正面から向き合うのだ.そうした向き合い方を常にしていれば,適当な生き方をしている中途半端な人間はまず寄り付かない.美味しい儲け話のようにコーティングした詐欺話を持ってくる人など全く寄せ付けない.結果として「真面目」な人間性に心底惚れた人だけがだんだんと集まるようになる.こうして自然と人間関係も素晴らしく豊かなものになっていくのだ.


 ここまで書いてみてわかると思うが,本当の「真面目」な生き方は世間がイメージする『真面目』な生き方とは全く異なる.ただただ従順に生きることは全く「真面目」ではない.むしろ大変「不真面目」な生き方ともいえよう.嘘冗談なく本気で誠実にぶつかり続けることが本来の「真面目」な生き方なのだ.

 ただ,この生き方は非常にエネルギーを使う.そしてこの生き方を貫くのはハードルが大変高い.なぜなら,「真面目」な生き方は他者との対立を意図せず生んでしまうだろうし,様々なケースで面倒な人間として扱われることもあるだろうからだ.
 しかし一方で,人生を豊かに過ごしていくためには,やはりこの「真面目」な生き方を実践するしかない.人は誰しも,なりたいものや欲しいものがあるが,当然その欲しいものが空から降ってくるのを待つだけでは,手に入るわけがないからだ.
 シータが空から降っていても,パズーがずっと家にいたままではその後のドラマティックな物語は展開されるわけがない.勇気あるパズーはちゃんとシータが降り立つ場所に移動し,精一杯自身の腕を差し出すのだ.つまり,人生をより良い方向に前進させていくには,何かしらエネルギーを発揮してアクションを起こさなければならない.そのアクションを起こす精神的源泉としてどうしても「真面目」が不可欠なのだ.


 以上を踏まえると,私含め多くの人は,多かれ少なかれ「不真面目」であることを認めざるを得ないだろう.
 たとえ欲しいもの,なりたいものがあったとしても,小さな失敗をきっかけに自身の宝物を探し掘り当てる旅から早々と離脱し,「私には才能がないから」「今住んでいる場所に,チャンスなんか訪れるわけがないから」「自分には勇気がないから,そんなアクションとれるわけがない」…という言い訳や文句を探し垂れ流す旅に切り替えてしまう.そして,それを「自分はもう大人になった」などという言葉で正当化してしまう.もちろん,旅の方向性をそのように切り替えることに何の罪があるわけではない.ただ,そうした方向性の切替を行ったのにもかかわらず,「俺は『真面目』に生きてきたのに全然報われない人生を送ったんだよな.やっぱり『真面目』な生き方はクソだ」という捨て台詞を吐いてしまうのはちょっといただけない.最後まで「真面目」さを貫ききれなかったその結果を甘受しているだけにすぎないだけだからだ.「真面目」という言葉に,安きに甘んじてしまった生き方を投影するのはお門違いだということである.

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 幾度も繰り返すが,「真面目」な生き方をするのは非常に大変だ.世間一般の人が簡単に真似できるような生き方ではない.しかし,この生き方だけが人生を充実させる唯一無二の生き方ではないか,とさえ思ってしまう.
 

 残念ながら世間の勝手なイメージで「真面目」はネガティブなニュアンスを植え付けられてしまった.気軽に人の性格の一端を表現できる言葉として市民権を得たばっかりに,本来持つニュアンスがだんだんと失われていくのは悲しい限りである.
 しかし,このnoteで長々と書いた通り,「真面目」に生きるとは本来とても素晴らしく,とても大変で,とても人間的な営みである.
 ここまで書いてしまったからには,自分も「真面目」な生き方をもっともっと追求していくつもりだ.

自分の人生をより豊かに,幸せにしていくために,である.

いつもお読みくださり、ありがとうございます。今後とも、ふと思い立ったときにお立ち寄りください。 何か一つでも誰かにピンと来るような言葉を、これからも紡ぎだせるよう精進します。