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【開け、奈良~一句から始まる奈良めぐり~ 】第六句 戒壇院の女

俳人としても活躍する編集者で文筆家の倉橋みどりが贈るショートエッセイ。
奈良で詠まれた一句、奈良を詠んだ一句から、奈良の歴史へ人へと思いをめぐらせます。


 奈良の仏像の中で、一番心惹かれるのは、東大寺戒壇堂の広目天さんだ。寄せた眉根、ぎろりと光る眼差し、そして引き締まった体躯…。筆を持っておられるのは、衆生の過ちなどを帝釈天に報告せんがためと言われるが、私たち文章を書くものの守り本尊のようにも思えて、欄干に体をぎりぎりまで寄せ、一段高い場所に立っておられる広目天さんを何度仰いだことだろう。
 我が恋仏である広目天さんが、今月(2020年6月)いっぱいでしばらく堂内での拝観ができなくなる。戒壇堂の耐震工事が始まるためで、その間は東大寺ミュージアムで拝観できるようになるとはいうが、お堂へ戻ってこられるのは3年後になると聞けば、やはり寂しい。
 戒壇堂を詠んだ句はないだろうか。ようやく『近畿ふるさと大歳時記』で次の一句を見つけた。

 端居して戒壇院に女あり  高野素十(1893/明治26年~1976/昭和51年)  

季語は「端居」。涼を求め、風のよく通る場所でくつろぐことを言う。「はしい」という音からして涼しげで、好きな季語のひとつである。
端居しているのは作者だ。
数えきれないほど参拝したが、戒壇堂には、涼を求めて座ることができる場所はなかったように思う。そう思って読み直してみると、この句では戒壇堂ではなく、戒壇院となっている。戒壇院は、戒壇堂を含む少し広い範囲を指す。手元の東大寺手帳の境内図を確認してみても、戒壇堂と千手堂とを取り囲んだ線の上に戒壇院と書かれてある。修二会の際に、別火(べっか)と呼ばれる前行の場となる別火坊も、いつか泊まってみたいと夢見ている華厳寮も、戒壇院の一角を占めている。戒壇堂の前の石段を上がって、千手堂、別火坊、華厳寮の横を抜け、土塀の間のゆるやかな石段を下りると、焼門へと続く道に出る。ここを辿る人はそれほど多くないから、ゆっくり歩いていると、ふと時間がどの時代かで止まっているような心持ちになったりする。素十が腰かけていたのは、千手堂の縁側だったかもしれない。
 昭和の初期、活躍目覚ましい4人の男性俳人は、そのイニシャルが揃ってSだったことから「4S」と呼ばれたが、素十もそのひとりだ。素十は茨城県出身。東京帝国大学医学部を出て医学者の道へ。新潟大学および新潟医大に勤め、定年後は奈良医大法医学部長となった。それに伴って、昭和28年の一年足らずではあるが、奈良の高取町に住まいした。残念ながら手元の資料では、この句がいつ詠まれたものなのかは判然としないが、戒壇堂にお参りしたあと、汗をぬぐいつつ、歴史の余韻に浸っている素十の姿は、奈良に暮らした60歳ごろというよりは、若き旅人であってほしいと思う。
 ここで、おそらく素十がそうしたように、戒壇堂の歴史に思いをはせてみよう。大仏殿の前に戒壇が築かれ、幾多の苦難を乗り越え、唐から渡ってきた鑑真和上が、聖武上皇、光明皇太后ら400人を超える人々に戒を授けたのは、754年(天平勝宝6)のことだった。その翌年、この時の土を移し、日本初の正式な授戒の場として建立されたのが、今の戒壇院の始まりだという。現在の戒壇堂は、江戸時代の享保年間(1732年)に再建されたものだが、広目天さまを含む四天王像は天平時代の作。素十がお参りしたころは、四天王像を下から見上げるのではなく、壇上で拝観することができたという。壇上で相対すれば、今以上に四天王の眼光は厳しく感じられたことだろう。
 さて、そんな素十の眼前を、おそらく日傘を差した女性が、通り過ぎて行った。さっき見た四天王像の眼差し、威嚇するようなポーズとはあまりにも対照的なやわらかい動きで。虚を突かれたような心持で、素十は、見知らぬ女性の背中が見えなくなるまで目で追ったのではないか。
 素十の句の持ち味は、彼自身の言葉を借りれば、「一木一草一鳥一虫を正確に見る」、そして、見たままを描写することにあり、時にその姿勢は、「草の芽俳句」「詩が不足している」などと批判されることもあった。この句も、素十はいつものように在りのままを詠んだのに相違ない。しかしながら、「戒壇院」という場が持つ歴史の深さと、「女」という一文字とが、作者も思わぬほどの化学反応を起こし、私たちの想像力を刺激する。よい俳句というものは、発表された瞬間から作者の思惑を離れ、ひとり歩きするものなのだとつくづく思う。

以上

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