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【開け、奈良~一句から始まる奈良めぐり~】第十一句 月の奈良ホテル

俳人としても活躍する編集者で文筆家の倉橋みどりが贈るショートエッセイ。
奈良で詠まれた一句、奈良を詠んだ一句から、奈良の歴史へ人へと思いをめぐらせます。

第十一句
月の奈良ホテル

 奈良ホテルは不思議な場所だ。奈良を代表する場所なのに、いつも奈良に居るのではないような気持ちにさせられる。取材で、あるいは人と会うために、何度訪れても、それは変わらない。

階少し軋むも月の奈良ホテル  水田むつみ(1942/昭和17年~)

 奈良ホテルを詠んだ秋の句はないかと探してみると、こんな一句に行きあたった。季語は「月」。詩歌の世界で最初に習うのは、「花といえば桜、月といえばもっとも美しいとされる秋の月をさす」という「常識」である。どちらも移ろいゆくからこその美を愛でるのだ。俳句でも、ただ月といえば秋の季語になる。だから、作者は今、月の美しい秋の一夜を奈良ホテルで過ごしている。
「かいすこし きしむも」という出だしの、硬質な「か行」の響きが、月のひんやりとした光のイメージを呼び起こしてくれる。そして、奈良ホテルで「階」といえば、正面玄関を入って、ロビーから続く大階段のことに違いない。
 奈良ホテルの顧問で、私が「奈良ホテルの生き字引」とあだ名している辻利幸さんから、かのオードリー・ヘプバーンもこの階段を上がったところで写真を撮ったとうかがったことがある。真っ赤な絨毯が敷き詰められ、手すりの角には赤膚焼の擬宝珠(ぎぼし)がついていて、天井からは吊り燈籠を思わせるシャンデリアが下がっている。あの大階段を上るときは、いつもよりもゆったりとした足取りになり、背筋も自然と伸びる。軋む音がしたかどうか、どうしても思い出せないけれど、でも、この句を繰り返し繰り返し読んでいると、あの大階段を、かすかに軋ませながら一段一段上がっていった夜が、私にも確かにあったように思えてくるから不思議だ。
 しかしながら、この大階段から夜空を見ることができない。作者は、今、実際の月を見上げているのではなく、「月の奈良ホテル」という空間に、ただ身も心も委ねているのだと思う。
それにしても、「月の奈良ホテル」という言葉は、言葉そのものが美しい。
「月の砂漠」という歌の題名も同じだが、日本語は便利で、月の美しい光に包まれた光景のことを、「月の」というだけで表現することができる。ことこまかに説明するよりも、思い切って言葉を削ることで、かえって豊かな意味を含ませることができるのだ。だからこそ、世界で一番短い定型詩といわれる俳句が生まれ、今も生き続けているのだろう。
 さて、奈良ホテルに行く度に、独特の空気感を感じるのはなぜなのだろう。ふと、正確には、「奈良に」ではなく、「現代の奈良に居るのではないような」気持ちと言うべきなのかもしれないと思えてきた。
 1909(明治42)年に誕生し、110年を超える歴史を重ねてきた奈良ホテル。私が知っているだけでも、皇室の方々をはじめ、オードリー・ヘプバーン、マリリン・モンロー、チャップリン、アインシュタイン博士――俳句の巨人である高浜虚子も、国民新聞の記者として大正時代に取材に訪れている――など、世に名前が残る人もそうでない人も、世界じゅうからここにやってきた。その誰もが、きっと私がそうであるように、温かく、丁寧に迎え入れられた、その記憶がここには漂っているのかもしれない。戦後、米軍に接収された時代も含め、ここで過ごした人々の笑顔と心地よい記憶が積み重なって出来上がった、独特の空気感が、奈良ホテルには有るような気がしてならない。


 奈良に住む私には少し贅沢だけど、この秋は「月の奈良ホテル」に泊まってみようか、と思い始めている。
 


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以上


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