見出し画像

【開け、奈良~一句から始まる奈良めぐり~】第十二句  西の京の満月

俳人としても活躍する編集者で文筆家の倉橋みどりが贈るショートエッセイ。
奈良で詠まれた一句、奈良を詠んだ一句から、奈良の歴史へ人へと思いをめぐらせます。

第十二句)
西の京の満月

 もうそろそろ上野さち子先生のことを書いておかなくてはいけない、と思う。私が俳句と出合うことができたのは、先生のおかげなのだから。
 県立山口女子大学国文学科。片田舎の小さな大学に入学してすぐの授業で、上野先生――いや、いつもそう呼んでいたように、さち子先生と呼ぶことにしよう――が、ある一句を黒板に書いたのを見て、恋に落ちるように、私は俳句の道に入った。満開の楊貴妃桜を窓から見て、先生は「風に落つ楊貴妃桜房のまゝ」という杉田久女の句をさらさらと板書されたのだった。見たままのようでいて、玄宗に愛された楊貴妃の生涯を思い起こさずにはいられない、実にドラマティックな一句に、胸が震えた。
 それまで教えられた俳句にこれほど心を揺さぶられたことはなかった。高揚した気持ちのまま、その日のうちにさち子先生の研究室をノックした。当時、還暦を過ぎたばかりの先生のお体は、病気がちでおられたせいだろう、とても細かったが、姿勢よく、落ち着いた声で出迎えて下さった。「先生、私、俳句が大好きになりました。どうすれば俳句を学べるのでしょうか」と問う私に、「では句会をしましょう」とその場でおっしゃった。
 そのあと、先生と学生と大学の厚生課の方など4、5人の会ができ、先生のお宅や我が家などで、折々に句会を開いた。俳句とはどんなものなのかまったくわかっていない私に、「とにかく作って出してみなさい」とだけおっしゃる。見よう見まねで詠んだ句を出し、時折褒められてはいい気になり、誰からの点も入らないといっては落ち込み……、ともかく毎回の句会をこなすのだけで精一杯で、うかつなことに、さち子先生が、教科書にも出てくる俳人・大野林火の直弟子で、全国的にも著名な俳人であり、俳文学者であったことには気付いていなかった。
 いつも物静かで、授業中に冗談などもおっしゃらないさち子先生は、学生からは、少し敬遠されているようなところがあったが、私は先生が大好きで、句会以外にもお宅へ何度もお邪魔した。突然訪ねても、いつもおいしいお薄を点ててくださった。そんな折のおしゃべりだったかどうか思い出せないが、「杉田久女と並ぶ女性俳人に橋本多佳子がいて、その四女の美代子さんとは親しくしているのよ」と教えていただいた。大学時代には「久女と多佳子」というレポートも書いたりしたものの、私は徹底的な久女贔屓で、多佳子の作品はあまり好きになれないままでいた。
 大学を卒業し、大阪で編集の仕事をするようになり、奈良の著名人を訪ねる連載を担当することとなり、さち子先生の言葉を思い出し、あやめ池の多佳子旧居を訪ね、美代子先生にインタビューをすることになった。多佳子のことを聞きたいというよりは、「なかなか奈良までは出かける元気がないけど、美代子さんにはもう一度会いたいわね」とおっしゃるようになっていたさち子先生を喜ばせたい、という気持ちが強かったと思う。
 しかし、このときのインタビューで、私は多佳子の作品や生涯と本当の意味で出合うことになり、間もなく、俳句結社誌に多佳子の評伝を連載し始めることになる。活字になった評伝は、もちろんすぐにさち子先生に送った。先生が、「うれしいことです。あなたのように私の後を継ぐ人が出るとは…」と、端正な文字でしたためて下さった葉書は今読み返してもしみじみとうれしい。
「唐招提寺のカンゲツエにご一緒した」と、さち子先生からも美代子先生からも何度となくうかがったように思う。奈良の人と結婚して奈良に住むようになった私は、美代子先生へのインタビューの後、フリーで奈良のあれこれを取材するようになり、「カンゲツエ」というのは、唐招提寺さんで毎年中秋の名月の夜に行われる観月讚仏会(かんげつさんぶつえ)のことだと知った。いつの日か、さち子先生と美代子先生と3人揃って、お参りできたらどんなにいいだろうと思っていたそれなのに、2001年(平成13年)9月22日、月の美しい頃に、さち子先生は76歳でお亡くなりになってしまった。
 この原稿を書くために、久しぶりに、さち子先生の句集を開き、唐招提寺の句を探す。あった。1992年(平成4年)の4句で、「唐招提寺観月会」という前書きがある。

 風鐸をゆるがせて月上(つきのぼり)けり
 襖絵の瀧けぶりたつ良夜かな
 盧舎那仏月光厚きひざがしら
 田の上の満月小さし西の京
上野さち子(1925/大正14年~2001年/平成13年)

 どの句も端正でありながら、大らか。先生のお人柄そのものだ。この中で、私のベスト1を選ぶとすれば、最後の一句。「小さし」は、俳人の慣例で、「ちさし」と縮めて読む。「たのうえの まんげつちさし にしのきょう」。まろやかな響きが、唇にも心地よい。何より、お寺の門を出て、駅に向かって歩く田んぼの脇の道から、夜空のお月様への、なめらかな場面転換。満ち足りた時間が伝わってくる。
 『自註現代俳句シリーズ 上野さち子集』には、この句について以下のように記されていた。
 
 その夜は珍しく晴れ上がって、観月会には申し分なかった。近辺から参集した人々も散り、こちらも帰路へ。月は、と見ると、もう野のものだった。

 いま、キーボードを叩きながら、この文章が、在りし日の、さち子先生の声で脳内再生されることに驚く。そして、泣けてくる。
親元を離れ、就職した後にお会いしたときだったか、いつものようにお薄を一緒にいただきながら、「女性は50代が、一番いい仕事ができるのよ。それを楽しみに、仕事を頑張りなさい」とおっしゃったことがあった。当時の私は、50代になった自分をうまく想像することができず、その言葉を覚えておくだけで精一杯だった。けれど、その後、仕事で失敗したり、迷ったりするたびに、この言葉に何度慰められ、励まされてきただろう。そうして気づけば50代も半ばにさしかかってしまった。先生の言葉はわかるようでもあり、まだまだその境地まで達していないようでもあり……ではあるが。
 さて、中秋の名月のことである。旧暦八月十五日の月のことで、今の暦では毎年日付が変わる。さち子先生がお亡くなりになった2001年(平成13年)の中秋の名月は10月1日だった。
 そして、今年の中秋の名月も奇しくも同じ10月1日である。コロナ禍で、唐招提寺さんの観月讚仏会も、ほかの社寺などで行われる観月の催しも、まったく例年通りとはいかないだろうと思う。だが、せめて今年は、心を鎮め、心ゆくまで名月を仰いでみよう。もし、許されるのなら、90歳を超えてなおお元気でいて下さっている美代子先生とお会いして、久しぶりに、さち子先生の思い出話をしたいと思っている。

画像1

今回取り上げた句が詠まれた平成4年刊の句集『水の上』。目の前で、「学生と在りし歳月鳥曇」の句を書いて下さった。藤井は私の旧姓。

以上


倉橋みどりさんの連載エッセイです。今後も続きます。
基本全文無料ですが、よろしければこちらから投げ銭頂けると嬉しいです。


ここから先は

0字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?