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【開け、奈良~一句から始まる奈良めぐり~】第十四句 秋雨や

俳人としても活躍する編集者で文筆家の倉橋みどりが贈るショートエッセイ。
奈良で詠まれた一句、奈良を詠んだ一句から、奈良の歴史へ人へと思いをめぐらせます。


 ある会で柳澤さんという女性と出会った。聞けば、柳澤家のご当主夫人だという。奈良で柳澤といえば郡山のお殿様である。さっそくお口添えいただき、柳澤家の菩提寺である永慶寺を拝観させていただいた。そのとき、庭で見つけたのが、高濱虚子の句碑だった。刻まれているのは次の句である。

 秋雨や車なければ歩くまで    
高濱虚子(1874年/明治7年~ 1959年/昭和34年)            

俳句に詳しくない人でも高濱虚子の名前は知っていると思う。彼は、平明でありながら滋味のある多くの名句を遺しただけでなく、今なお俳壇の一大勢力であり続けている結社「ホトトギス」の敏腕経営者でもあった。全国津々浦々に門人がいて、虚子はあちこちの句会に招かれ、そのたびに句を詠む。感激した門人は句碑を建てるのである。
私たちが、名所旧跡神社仏閣の一角で、虚子の句碑に出合うことが多いのには、そんなわけがある。例えば、京都の二尊院に「散り紅葉こゝも掃き居る二尊院」、奈良の長谷寺に「花の寺末寺一念三千寺」、北九州市の和布刈神社に「夏潮の今退く平家亡ぶ時も」……と挙げればきりもない。どの句もさらりと詠まれているが、その地の歴史への畏敬があり、そのときの出来事を踏まえている。こんな句を詠まれたら、そりゃあ門人たちはうれしくなって、そのエピソードを語り継ぎたいと思うだろう。かくして、句碑が誕生していく。
 だから、永慶寺の庭の句碑を見て、ああ、ここにも虚子が来たのか、と思った。
 調べてみると、やはり、虚子は永慶寺を訪れていた。
  1917年(大正6年)10月に九州を旅し、その帰りに京都、奈良に立ち寄り、大和郡山(当時は生駒郡郡山町)では、ホトトギス門人で郡山中学校の英語教師をしていた原田八郎(俳号・濱人)氏を訪ねた。
そのときの句が句集『五百句時代』に採られている。

濱人居を訪ふ
客を喜びて柱に登る子秋の雨
      十月二十四日。郡山へ行く。雨。

当然のことながら、虚子先生を囲んでの句会が催され、その会場が永慶寺だったのである。句会の後、会場を料理屋・四海亭に移し、虚子の歓迎会が行なわれた。
 四海亭は今はもう影も形もない。材木町にあったというから、永慶寺から歩いて30分ほどだろうか。当時虚子は43歳。歩けない距離ではないが、生憎雨が降り始め、クルマを手配することになった。この当時のクルマとは人力車のことである。急な雨で呼ぶ人が多かったのか、人力車は出払っていた。申し訳なさそうな顔で、クルマが手配できないことを告げる門人たちに、虚子は「それなら歩いていけばいい」と言い、この一句を詠んだ。きっと笑みを含んだ声で言ったのだろう。門人たちの安堵する表情が目に浮かぶ。
句碑建立は1952年(昭和27年)11月。虚子が訪れてからずいぶんと後のことで、時代も変わった。元の句は「俥なければ」であったが、虚子自身が「今、句碑にするのなら、俥ではなく車の漢字を使ってほしい」とリクエストしたのだという。
さて、歓迎会の会場となった四海亭について、である。どんな料理屋だったのかを知りたくなり、郡山在住の知人数人に尋ねてみた。相当の名店だったと思うのだが、誰もよく知らないという。だが、赤膚焼窯元・小川二楽さんの紹介で、四海亭について調べておられる大和郡山市文化財保存活用課の西山真由美さんにご教示いただくことができた。
当時の雑誌や新聞をひもとくと、1898年(明治31年)12月発行の『実用之栞』という雑誌に、四海亭が「郡山町今井」にある「新築後間もない料理店」として紹介されていること、1913年(大正2年)1月の奈良新聞掲載の広告では所在地が「材木町」となっているので、創業後10年もたたないうちに移転したと考えられることなどがわかるそうだ。廃業の時期についてはわからないが、昭和43年の住宅地図に四海亭の名前はすでにないという。
虚子が訪れた1917年(大正6年)から12年後の、1929年(昭和4年)のお品書きも見せていただいた。「突出し、造り身、すい物、煮合、焼肴、酢肴、赤だしすい物、以上七点」で金壱円とある。焼肴とある下には小さな文字で「さわら、魴(ほうぼう)、ぐち味噌漬 又ハ鮮魚フライ 又ハ鯛塩焼 守口大根」の添え書きがある。海のない奈良で魚料理を売り物にしていたようで興味深い。
店の名前にも海が入っている。「四海」を辞書で引けば、四方の海のことでもあり、世の中の意味もあるという。お祝いの席で謡われる「高砂」に「四海波静にて、国も治まる時つ風。枝を鳴らさぬ御代なれや。あいに相生の、松こそめでたかりけれ。」の一節があったことを思うと、実に縁起のよい名前に思えてくる。祖父の代から能楽と深い関わりを持つ家に生まれ、新作能まで書いた虚子もきっと、四海亭という名から高砂の一節を思ったに違いない。そして、楽しい宴が繰り広げられたことだろう。
虚子がどこにもそう記してはいなくても、「秋雨や」の句を碑に刻むことを許したことが、郡山で過ごしたひとときが虚子にとってよい思い出になっていることを証明している。句碑を建てるとは、すなわちそういうことなのだ。

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以上


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