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【開け、奈良~一句から始まる奈良めぐり~】第二句  若葉して

俳人としても活躍する編集者で文筆家の倉橋みどりが贈るショートエッセイ。奈良で詠まれた一句、奈良を詠んだ一句から、奈良の歴史へ人へと思いをめぐらせます。

 柿若葉が輝き始めると、唐招提寺に句碑が建つこの句を思う。

若葉して御目の雫拭はばや   
松尾芭蕉(1644/寛永21年・正保元年~1694/元禄7年)

「この若葉で、あの方のお目の雫を拭ってさしあげたいものだ」という意味である。あの方とは鑑真和上のことだ。
元禄元年、45歳の芭蕉は初夏の唐招提寺を訪れ、ほぼ千年以上前の鑑真和上に思いを寄せ、この句を詠んだ。
当時も現在と同じようにご命日の5月6日に和上像を拝むことができたのだろうか。(現在は新暦に当てはめ、6月5日に鑑真和上像が開扉される。ただし、2020年は中止)
この句は、紀行文「笈の小文」に載っているが、句の前には、
「招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して」とある。
「船中七十餘度の難」という言葉が気になるが、手元の本ではこの箇所に特に注釈もない。鑑真和上は、15年間五度の失敗を経て、天平勝宝5年(753年)に日本へとやって来られた。それが「船中七十餘度の難」とあるのは、当時はそのように言い伝えられていたのか、あるいは芭蕉の思い違いか……。
いずれにせよ、芭蕉は、和上像のやわらかく閉じられた目元に輝くものを確かに見た。心の眼で捉えたそれを涙と呼ばず、「雫」と詠んだのは、それが決して悲しみだけが宿るものでないと思いたかったからではないか。
だからこそ、まぶしい「若葉」という季語を選んだ。結局故郷へ戻ることなく、異国の地で終えることになった和上の生涯は、ただ素晴らしいものであったという芭蕉の心からの称賛と共感が伝わってくる。芭蕉もまた旅に生き、旅先の大坂の地で50年の生涯を閉じることになる。
これまで幾度、鑑真和上像を拝ませていただいただろう。合掌をして顔を上げると、まるでまだそこに生きておられるような温かさを感じ、はっとさせられる。
鑑真の生涯については、鑑真の高弟であった思託(したく)が著した『広伝』、さらにそれを鑑真の身近にいた淡海三船が簡略にした『唐大和和上東征伝(東征伝)』が後世に伝えた。
それらによると、この像は、鑑真和上がお亡くなりになる少し前から造り始められた。やがて和上は結跏趺坐したままお亡くなりになり、3日を経ってなお、頭頂部は温かかったという。

いま思い出すあのお顔は、確かにかすかに微笑んでおられる。

• 参考・『芭蕉紀行文集』岩波文庫


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