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【開け、奈良~一句から始まる奈良めぐり~】第一句  青丹よし

俳人としても活躍する編集者で文筆家の倉橋みどりが贈るショートエッセイ。奈良で詠まれた一句、奈良を詠んだ一句から、奈良の歴史へ人へと思いをめぐらせます。


「青丹よし」とは言うまでもなく奈良の枕詞。「万葉集」の「あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」(小野老)の有名な一首を思い浮かべる人も多いだろう。この言葉で始まる、好きな一句がある。

青丹よし奈良の毛虫におののくよ   平畑静塔(1905/明治38年~1997/平成9年)

奈良公園だろうか、木々の間を俳句でもひねりながら歩いていたら、そこに突然毛虫が落ちてきたというのである。作者の平畑静塔は京都帝大卒の精神科医でいくつかの病院長も歴任する一方、若き日は京大俳句事件で検挙され、戦時中は奈良の日吉館に泊り込んで句会をしたという“筋金入り”の俳人である。少々のことでは動じないイメージがある静塔が、「うわあ」と声をあげた場面を想像するだけでも楽しい気持ちになる。
この句の季語は「毛虫」。歳時記をめくると、美しい花や趣のある風や雨の名前に、毛虫や蛇、ゴキブリなど、あまり好きな人はいないであろう生き物の名前も肩を並べて載っている。
最初は不思議だった。が、俳句を作り始めて20年ほどが過ぎ、俳句を教える機会を得る頃には、その意味がわかるようになった。
俳句とはどんな詩か。そう問われるたびに、すべてのいのちへの「挨拶」の詩だと答えてきた。「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」。私たちが何気なく交わす「挨拶」は、儀礼的なものでしかないと思いがちだが、その根底には、間違いなく相手への「祝意」と「感謝」がある。四季がめぐるなかで、それぞれに輝きのときを持つ全てのものを慈しむために、私たちは俳句という詩を編み、私たちを超える大きな存在に捧げずにはいられないのだと思う。
奈良で暮らすようになって、初めて聖武天皇の「盧舎那大仏造立の詔」を知ったときは心が震えた。

誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かに万代の福業を修めて動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。

動物も植物も生きるものはすべてともに栄えることを願った、この一節は、俳句を詠む心そのものだ。
 毛虫も蛾も蚤も…みんな、私と同じ今を生きている。そんな事実がたまらなく有難く思えたとき、ずっと大切にしたい一句が生まれるのだと思う。


※万葉集の歌の表記は講談社文庫版『万葉集全訳註原文付』に拠る。
※聖武天皇は、紫香楽宮の造営が開始された天平15年(743)10月15日に「盧舎那大仏造立の詔」を発した。

倉橋みどりさんの連載エッセイです。今後も続きます。
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