胸囲の格差社会についての書き散らし

女は愛嬌、とはよく言ったものである。愛嬌のある女はチヤホヤされる。
だが、本当に女にとって一番の武器は愛嬌だろうか。
愛嬌があること、美人であること、確かにそれは大きな武器である。
しかし、こと男社会において「巨乳」に勝る武器はない。
万有引力、いや万乳引力によって男は自然と巨乳に吸い寄せられるのだ。

愛嬌を「ふりまく」というが、愛嬌は勝手に湧き出て人を魅了するわけではない。
本人が意識を持って、笑顔で気配りしなければ愛嬌は生まれない。
愛嬌は後天的で作為的な面があり、それ自体の希少価値は大したものではない。

また、流行り病によってマスクの着用が当たり前となった今、美人であることは大きなアドバンテージではない。
アイメイクをすれば誰だってそれなりに見えるだろう。

巨乳はどうだろうか。
巨乳は見せびらかしたり揺らしたりすることもできるが、それをしなくとも十二分に威力を発揮する。
男は潜在的に巨乳を欲しているため、巨乳はただ「そこにいる」だけでよい。
身近なところに大きな胸があるだけで、男はやる気を出したり判断力が鈍ったりするものである。
ピチピチのニットを着たり谷間を見せたりすることは「巨乳」に付け足されたものであり、巨乳であること自体が作為的なわけではない。

ここまで書いたところで、反論を予想した。

例えば
「作為的な巨乳(パッド、豊胸)もあるじゃないか」
「太ってたら意味がない」
「美人のほうがいい」

といったところだろうか。

安心してもらいたい、本題はここからだ。
タイトルの通り、私が今回言及したいのは「胸囲の格差社会」つまり巨乳と貧乳の間にある格差だ。
疑問を持っていただくためにも、あえてまずは巨乳の優位性を羅列した。

先ほど挙げた3つの反論は、巨乳を否定する際によく使われるものである。しかし実際にはそのどれもが、巨乳と貧乳の格差の裏付けになる。

まず、作為的な巨乳について。
確かに様々な手によって疑似的に巨乳を作り出すことはできる。
だがそれは、そこまでして巨乳にするメリットがあると女性側が認めている証拠である。
そして作為的な巨乳があることで、天然の巨乳の価値はさらに高まる。
また胸を盛って巨乳に見せることができるのは普通サイズの胸の人であり、貧乳は盛ることも寄せてあげることも叶わないのだ。

「巨乳は太ってる」という人がいる。
巨乳の人は肉が付きやすいと思われているが、実は胸の大きさによる差はあまりない。
ムチムチの巨乳はそこから痩せることは可能であるが、痩せ貧乳が太っても胸が大きくなることはないだろう。

「美人のほうがいい」
巨乳と美人という二つの要素は確かに甲乙つけがたいかもしれない。だが、この二つを比べている時点で巨乳>貧乳であることは認めているも同然である。当たり前の話だが、貧乳の方が美人が多いということは無い。

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