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本で巡る狩猟世界 【文化・民俗編】


『新編越後三面山人(やまんど)記 マタギの自然観に習う』

田口洋美/著
ヤマケイ文庫 1,026円 ISBN:978-4-635-04790-6

新潟県岩船郡朝日村三面(みおもて)。
現在は閉村した集落に、昭和56年から通い、山と暮らす人々を事細かに描いた本。
「山人」とはヤマゥドと言われ、山と関わり、生業にする人々全般を指す言葉である。
 その中で猟師は、古くから作法や決まりがことが継承され、厳しい戒律が存在する。「スノヤマ」というカモシカ猟は、伝統の継承や猟師の育成としての行事であるだけでなく、山への信仰的意味合いが強い。〝山の法事〟と語られるスノヤマは「聞けば語るな、語れば聞くな」と言われるほど実態は門外不出であったという。
その厳しさから若い猟師から不満が出て、スノヤマも今では行われなくなった(現在カモシカは非狩猟獣である)。古くから脈々と受け継がれる風習や伝統も、幾度となく当事者の理由や都合で変化や廃止を経て今日に至っていることなど、消えていく風習や伝統の意味を考えさせられる。
「オレは獣を獲って川の魚を食い、土を耕して、草だの木だの使ってなっ、あらゆるもの使って、人間の勝手だごでな。命奪うんだもの、自然のもの略奪するんだはでな。だども、人間そうしてやらねば、生きてこれねがった。(中略)山に助けてもらって、支えてもらってなっ、生きてこれたんだわ」
この山人の言葉はとても重い。


『人はなぜ殺すか 狩猟仮説と動物観の文明史』

マット・カートミル/著 内田亮子/訳
新曜社 4,104円 ISBN:978-4-7885-0537-7

 知性、好奇心、感情、社会生活は狩猟への適応の産物であり、類人猿とヒトとが分かれたのは狩猟あってのことだとする「狩猟仮説」。ヨーロッパにおける狩猟文化の形成と動物と自然のあり方をその狩猟仮説から再考する。
 中世ヨーロッパにおける狩猟の特権化が興味深い。王族が狩猟保護区を設定し、狩猟を王族や貴族など特定の階級だけに許されるようになり、一般の人々は狩りのための道具を持つことさえ許されず、また野獣を狩った場合は、目を潰されるか、死罪になるなど残忍に罰せられたという。
また狩猟に関する用語や作法が社会的階級を示す印になり、雄鹿は高貴な野生獣を意味する慣用句で呼ばれるようになる。これら西洋思想がヨーロッパの狩猟に深く刻み込まれていった経緯は興味深い。しかし16世紀になると反狩猟感情が芽生えてくる。地主貴族の権力と権威の弱体化や、上流階級の法的独占や貴族の象徴である狩猟は、階級間闘争の焦点ともなったという。
日欧の狩猟文化の違いの根がわかる本である。


『現代日本人の動物観 動物とのあやしげな関係』

石田 /著
ビイング・ネット・プレス
1,944円 ISBN:978-4-904117-05-7

多くの狩猟の本の中では必ず食と殺生について書かれている。現代は生き物が殺され、解体され、スーパーなどに卸され、パックされ、我々の食卓に並ぶ。普段何気なく食べていた肉が、生き物が殺されたものだったことを狩猟を通して改めて気付き、食を見つめ直す。
食と殺生の意識の乖離は、果たして現代のシステム化された食糧生産事情だからなのか。
狩猟的観点から読むと明治以前の日本人の動物観が面白い。天武年間から明治四年に廃止されるまで、1200年続いた殺生禁断令では奈良時代末期まで食肉の禁忌は定着していなかったという。また食肉を避ける風習も兎や狸など野生動物には適用されず、食肉よりも屠畜が忌避されていて、大きな動物を殺すことを嫌がったことから、食肉が禁忌が次第に定着していったという。
 明治に入り一転食肉が奨励され現代に至り食肉への禁忌は消滅するが、殺生に関しての禁忌は残った。食べるために殺すという行為を差別の対象として忌み嫌った。牛肉と動物としての牛、豚肉と動物としての豚というように、生産過程を理解しているのにも関わらず、それを無意識に切り離しているという。
 食にとどまらず、神道や仏教など宗教観から、現代の動物愛護、絵本や小説に登場する動物など、日本人と動物の多様な関わりを紐解く本である。


『季刊東北学 第10号 特集日本の狩猟・アジアの狩猟』

東北文化研究センター/責任編集
東北芸術工科大学東北文化研究センター
2,057円 ISBN:978-4-7601-3040-5

特集「日本の狩猟・アジアの狩猟」にて、アジアの中の日本の狩猟という観点で民俗学的見地から狩猟を考察している。
ラオスの罠猟の話では、ベトナム戦争中は不発弾や地雷を使用してトラ猟の罠を設置し、爆発音がすると見にいき、粉々になったトラの肉片を中国人に売り、そのお金でで穀物を買い飢えを凌いだという。当時のラオスの人々にとって狩猟の技術が命を繋ぐ技術であった。
中でも面白いのが「弘前藩の猟師と熊狩り」の項。近世、弘前藩の猟師の記録から当時の狩猟事情を考察したもの。
いまでは信じられないが、狼による被害「狼荒」が猛威を振るい、幼子が狼の餌食になる事件が多発している。
宝永元年(1704年)には狼に4歳の男子が連れ去られ、村はずれで食い残された片足だけがみつかった。この年だけでも9人が狼に喰われている。
また元禄3年から享保14年(1690~1729)の間には狼に喰われて死傷した人は四五名。宝永元年から正徳3年(1704~1713)の間には30名にのぼる。
隣の盛岡藩でも元禄元年には1ヶ月の間に6人の子どもが狼に食い殺されている。
当時、盛岡藩は狼を捕獲すると褒美がでたが、弘前藩は自己防衛のためでも狼を殺すと処分された。
これにはあの「生類憐みの令」が大きく関係してくるのだが、東北の諸藩にて鉄砲の使用や所持の規定、獣害駆除への対応方針も大きく違うなど、時の政権の施策と領主の裁量に大きく左右されている当時の狩猟事情が興味深い。


※ムック『狩猟生活 vol.1』地球丸(2017年2月)に掲載されたものです。
地球丸より 現在(2018年10月)VOL.4まで発売中



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