髪を切ることが怖くなった話 / 人はなぜ髪を切るのか。

1.髪を切るのが怖くなった

友人と話していて、「髪を切る」という話題になった。

ぼくは、かれこれ1年くらい髪を切っていない。
その結果として髪が伸びた。(このNAVERまとめみたいな構文一回やってみたかった。)

だからたまに、「髪邪魔だな〜切ろっかな〜」というくらいの、軽いノリで考えることもあった。
ただ、今回、「髪を切ること」と向き合ってみたら、想像以上に、そこに嫌悪感や恐怖感があった。

え、なんで?
と、ぼく自身も思う。
考えをめぐらせてみる。

「面倒臭い」とか、「お金がもったいない」とか…?
ないとは言い切れない。
だけれど、それにしては、この嫌悪感は、もっと大きいものだ。

ぼくがいつも行く美容院は確かに遠い。
じゃあ、近場で済ませたらいいじゃない、とぼくの分身が言う。いや、それでも嫌だ、と思う。
それは、行きつけの美容院の人たちに申し訳ないという気持ちとは違う。

じゃあ、誰かからこれで美容院行ってきな!とお金をもらって行くのはどうだろう。…それでも嫌だ。

え、なんでこんなに嫌なのだろうと混乱する。
とにかく、どうやらぼくは、髪を切るということ自体を恐れている。

ネットで、検索をしてみる。
「髪を切る 嫌悪感」とか。

出てくるのは、美容院で人と話すのが嫌とか、そこで気を使うのが嫌、という意見。
それと、発達障害や自閉症の方が、じっとしていられないとか、感覚が過敏であるから、とか。あるいは、先端恐怖症の方がハサミが怖い、とか。

おかしい。どれでもない。

まず、ぼくには行きつけの美容院があって、そこの人たちは好きだ。話題に困ることもなければ、無言の時間があっても気にならない。
そして、これまでぼくは、美容院や床屋に行っていた。
幼少期のころから、それらを拒んだような記憶はなく、感覚が過敏だとしても、髪を切ることへの抵抗感は、今まではなかったはずだ。

と、したら、ぼくのなかで、何かが変わっている。
たとえば、ぼくは急に先端恐怖症になったのか?
ハサミを自分のお腹あたりに突きつけてみる。あんまりこわくない。
そりゃそうだ、眉毛を切ったりはできているわけで、だからハサミが怖い、ということではない。


とにかく、「髪を切りたくない」と心が叫んでいる。
「美容院に行きたくない」というのではなく、髪を切りたくない。
少なくとも、いまのぼくには、ハサミをお腹に突きつける以上の深刻さが、髪を切ることにある。
その中身がわからないと、友人にも申し訳がたたない。

何かしらの考えることが欲しかった日々にあらわれた課題に、真剣に向き合ってみた。


2.髪を切る理由


まず、通常、髪を切る理由を挙げてみる。
ぱっと思いついたのは三つ。

1、邪魔だから。
2、自己イメージ
3、他者イメージ

1は単純。前髪が顔にかかったら、邪魔だな〜と思う。
後ろ髪が首にさわって嫌だ。
伸びてきたらケアが面倒くさい。
とかとか。

ぼく自身も、邪魔だな〜と思うことはある。けれど、その邪魔によるストレスよりも、髪を切るということ自体のストレスの方が、今は大きい。
と、したら、とりあえず1の理由は、髪を切りに行く理由・行かない理由には含まれない。
というか、深く考えてもしょうがない部分だと思って、切り捨ててみる。
ぼくにとってだいじなのは、たぶん、2と3の理由だ。

3.自己イメージ

少なくとも、髪の毛と自己イメージというのは、結びついている。
それは、生活や環境にも、入り込んでいる。

たとえば、私の髪型はこれ!みたいなものがある人は結構いると思う。
そういうものがなくても、私の服装はこんな感じ、とか。
私は私のことをこうみている、こうしたい、というように。
あとで少し触れるけれども、それは「人からこう見られたいから、こうする!」というのではない。
あくまでも、自分が自分へ向けた印象。その拡張。

そこには二つの意味がある。
一つは、望んでいる自分。
自分自身が、こうありたい、こうなりたい、と思ってそこへ向かう発想。
可愛い自分でありたいから可愛い服を着る、といったような。

もう一つは、変な言い方だけど、自分である自分。
たとえば、ぼくには腕が2本生えていて(ついていて?あって?)、足も2本生えている。
何を当たり前のこと…と思われるかもしれないけど、意識はしていなくても、生えているものは生えている。
そして、自分をイメージしたときに、腕が2本ある自分を思い浮かべる。
かりに、片腕がとれた自分を想像したら、すこしぎょっとする。
もしかしたら、事故などによって、そうなることはあるかもしれない。
けれど、今はぼくには腕があって、腕がある自分を、腕がある自分として、受け止めている。

髪の毛も、たぶん、その領域に入っているのだ。
髪が長い自分、というのは、べつに、そうありたい!と思ってなったわけではない。
ただ、気づかないうちに、髪が、腕のようになっていた。
…別に髪を動かしてリモコンを操作できるわけではない。
ただ、髪も腕も、「身体」ではある。身体の延長線上、というか、そうなっている。
髪を乾かすのは面倒だけれど、ぼくの生活に根付いてきてしまっている。

「身体」という概念をどこまで含めるのか、そして、どこまで延長するのかはむずかしい。
ただ、今のぼくの「自己イメージ」においては、髪の先も身体なのだ。

髪の先には別に神経は通っていないかもしれないけど、「イメージのなか」では身体として捉えられているようである。

だから、その「身体の一部」を切り取られることを恐怖している。痛みはないのに。
髪を切ることは、自己イメージを変革することだ。
切られた短い髪のぼく、に、自己イメージを更新しなければならない。

そして、いま定着した「髪の長い自分」という自己イメージを、もしかしたら、更新したくないのかもしれない。

…いや、自己イメージを変えることって、髪を切ることって、そんなにたいへんだったっけ?
たぶん、それだけじゃないのかもしれないと思って、いったん「自己イメージ」のほうの深掘りをやめて、もう一つのほうも考えてみる。

4.他者イメージ、社会からの抑圧

自己イメージの反対、として、他者イメージがある。
これは、さっき少し書いたように、「他人からこう見られたい!」というようなこと。
たとえば、しっかりした人間に見られたい!と思って、スーツを着る。
家のなかではだらしないのに、外ではすごいきちんとする。

ただ、いまのぼくには、そういった意味での他者イメージは希薄であると言わざるをえない。
それは、人との関わりが極端に少ない引きこもりだから。
そしてまた、そうした他者イメージに対しての諦めがあるから。

以前書いた通り、ぼくはあまりの交友のなさからLINEのアプリを消している。それ以降(それ以前からも)ほとんど人との連絡をとっていない。
そんな感じで生きていると、他者イメージといったものに触れる機会がなくなっていく。他人からどう見られているかを気にしなくてよくなってくる。
だって見られないのだから。

また、他人からどう見られているか、といったことに対しては、完全にコントロールができない。そして無茶も生じる。顔を変えるなんてことは、簡単にはできないし。
そういう諦めもどこかにあるのだと思う。

ただ、ここで大事なのは、「他者イメージ」は、「他人のイメージ」に限定されない、ということ。
どういうことか、というと、「社会からのイメージ」のようなものがある。

たとえば、ぼくは音楽を聴きながら電車に乗っていて、歌いたくなる。
けれど、我慢する。
家だったら歌うけれど、外だったら大声で歌ったりはしない。

それは、「へんなひと」であると思われたくないからだ。
ただ、ぼくは一方で「へんなひと」である。その自覚はある。
友人、あるいは、美容師さんとの会話のなかで、「へんなひとだね」って言われたら、「そうなんですよー」って返すくらいには、「へんなひと」である自覚はある。

ただ、なんというか、社会や世間から、狂った人間として扱われるのは、なんだかちがうのだ。
というか、そこにある「へん」の内実がちがうのだとも思う。

とにかく、ぼくは電車のなかで歌うのを我慢してしまうような人間なのだ。
そして、それは、隣にいる友人からの要求とか、その友人にこう見られたいから歌わないのではない。
社会からの抑圧として、歌わない。

社会的抑圧、というのは意外と多い。
たとえば極端に言えば、服を着るのだってそう。

このように振る舞いなさい、ということを、空気として、同調圧力として、わかるよね?といったように、無意識的に、社会は強要してくる。

で、それらを苦労なく受け止められて、振る舞える人たちがいる。
というか、そう言う人たちは、それが当たり前で、当たり前だからそうするでしょ、と思って、そこに疑念を抱かない。
だけど、そういうのって実は身近にあって、嫌だな、って思う人たちがいる。
「え?結婚まだしないの?」とか、「もっと女性らしく(男性らしく)振る舞えよ」とか、嫌だって思う人、そう言える人は、多くなってきているとはいえ、そうやって言う人がまだいるのは事実で、また言ったり言われなかったりしたとしても、なんとな〜く、そういう雰囲気を感じて、嫌だなって思う人はいると思う。
被差別者とかの方は、とくにこういう問題には敏感だ。

そして、ぼくが被差別者かどうかは、とりあえずおいといても、「へんなひと」であるぼくは、社会的な圧力に対して、疑ってかかってしまう。
合理的な理由を求めてしまう。

それでも、疑いならも、大声で歌ったりしないで、ある意味では社会的抑圧に屈しながら、またある場所では社会的抑圧から逃れるようにして、過ごしている。
そして、そういう社会的な圧力を、抑圧を、「きもちわるい」と思っている。
きもちわるい、と言ったって、あるものはあるし、従わざるをえない時はあるから、しょうがない、とも思って、過ごしている。

なんで「きもちわるい」のかに関しては、そうした社会的抑圧が大きくなった世界を考えてみればわかるかもしれない。
そうなってくると、姥捨山のようなものが社会的抑圧によって肯定されたり、「ブサイクは全員死ぬべき」みたいな理論がまかり通ってしまうかもしれない。これは本当に極端な例だけれど、そういう怖さがある。
そして、それに従っている自分を想像したら、すこしこわいと、思う人は多いんじゃないだろうか。
ぼくはそれをこわいとおもう。だから同時に、今ある社会的抑圧の一部も、ぼくにとっては理不尽だったり、こわかったり、憤ったりするものだ。

少し脱線するけれど、ぼくは「社会人」という言葉が好きではない。
一般的な、日本の感覚でいえば、働いていない人や学生は、この「社会人」には当てはまらない。つまり、それらは「非社会人」ということになってしまう。
…ほんとうに?
言語上、働いていない人や学生は「社会」の構成要因として認められない?
あるいは、「社会の構成要員」だけれど、「人」ではない?
ぜったいに、そんなことはないはずだ。
つまり、そんなところにも、「社会」の強制力がある。
働かなくては人としては認めない、構成要員として認めない、あるいは、そうした「振る舞い」がなければいけない、とでも言いたいかのような。

さて、とにかく、そんなふうに振る舞いや服装が、他人とか、他者からの要求によってかたちづくられることがある。
そして、髪の毛はその象徴だったりもする。

すきなあのひとから、ボーイッシュなイメージに思われたい!というのがあれば、短い髪にする方が多いように。
伸びすぎた髪は切らないといけない、と思われがちなように。
人々は髪を整理することを、強要する。

だから、ぼくの「伸びた髪の毛」というのは、そういう他者イメージ、社会からの圧力から、「逃れた結果」であって、同調圧力への反発でもあって、その象徴なのだ。


5.例外的事象

さて、そんなことを考えていたぼくだったのだけれど、例外はある。
そして、その例外がある以上、なぜその例外が生じているのかを、考えてしまう。

今回、ぼくにとっての例外=髪を切っても(切られても)よいと思えるのは、二つ。

1、ヘアドネーション
2、実験として切られる

ヘアドネーション、というのは、詳述はしないけれど、簡単に言えば髪を寄付するものだ。

で、2個目の「実験として切られる」とはなにか。

たとえば、美容師になりたい、と思っている人がいたとして、その人の「実験台」になるのはかまわない。
あるいは、髪の構造が気になっていたり、髪を切る感覚が気になっている人の犠牲に、ぼくの髪の毛がなるのは、かまわない、と思う。
あとは、プロの美容師さんであっても、髪の構造だったり、ここをこう切ったらどうなるんだろうとか、普段使わないハサミでやってみるとか、すきバサミを使って長さを整えてみたい、とか、そういうのがあって、それを試せないというような人がいたら、協力してもいい、と思う。

それはたぶん、社会からの要求として、ではないからなのだと思う。
個人的な好奇心であったり、最終的には個人的な要求に応じるためのものだから、そこに対してはスムーズに、乗っていけるのかもしれない。

髪を実験的に切る、という、社会からの強制ではない「軽いノリ」によって切られるのなら、その「ノリ」に流されてもよい、と思う。
髪を寄付する、という「自らの決断」によってならば、それでよい、と思える。
そして、今のぼくには、「髪を切ること」は、自己イメージを損なうことを社会から「強制」されているように思えてならないなら、怖いのだと思う。

「スムーズに自分自身が乗れるのか」というのが、すごく重要なのだ。
たとえば、一週間後に大勢の人前で話す機会があったら、たぶん切るのだと思う。それは、人前で話すという流れに乗る、といった感じであって、社会的圧力に「屈した」という感じではない。実際には、その「人前の圧力」に屈しているのかもしれないけれど、その場に立つという時点でぼくの覚悟は決まっていて、そうした圧力への抵抗感がない。
この、なんともいえない、微妙な差異が重要なんだと思う。

流れに乗る、ということ。
流れの速い川であっても、中にいる魚は気づかない。けれど、外からみる人間には、こわいものに思える時があるように。
今のぼくは、川辺に座っていて、川の流れの速さもあって、そこへ飛び込む気にはなれない。
だけれど、急な増水で川辺まで水がきて、ぼくをさらうのならば、それはそれで流されていく、といったような。

6.停滞と破壊とイメージと停滞と

さて、ここまでぼくは、いくつかの髪を切りたくない要因を挙げてきた。
一つには、自己イメージ。
もう一つは、他者イメージ。

自己イメージは、自分のあり方の問題。
他者イメージは二つあって、人からこう見られたい、ということと、社会や他人から強制されるようにして、行ったりすることだった。

他者イメージの前者は、ぼくにとって欠落している、欠落してきたもので
後者に関しては、屈し難いもの、であるとしてきた。

それらは、確かに要因なのだけれど、要因同士での結びつきもある。
これがまた、厄介だ。
そして、その「要因同士の結びつき」は、ぼくの過去と今が関係している。

まずは、ぼくの「今」から書いていこうと思う。

ぼくは今、停滞している。
間違いなく、停滞している。

自己イメージのところで、ぼくは髪を切るのは、自己破壊でもあるとした。
自己破壊の「破壊」というと、こわいイメージかもしれないけれど、「かわる」ということはある種の破壊(同時に創造)として捉えてもらえたらよいと思う。
そして、この「自己破壊」というのは、なにも外見を変えるということだけではない。

たとえば、今までしてきたやり方を変える、ということ。
これも、自己破壊だ。
(このあたりにご興味ある方は、確実に千葉雅也『勉強の哲学』を読むことをおすすめします)

さて、そしてぼくは今、よくも悪くも停滞している。
文章を書くときの文体にしても、新しい分野の勉強をするぞ、という意欲にしても、現状にしても、ものすごく停滞している。
「時」によって、徐々に背中を押されてはいるけれど、それでも能動的に進んでいる、という感じではない。

この停滞さが、自己破壊のできなさが、同時に毛髪の長さにあらわれているのだとも思う。
停滞の表象としての長髪。
自己イメージと重ねるなら、停滞という自己イメージの象徴、としての長髪。

その一方で、他者、あるいは社会による強制としての、「髪を切る」という行為があるとした。
社会からの圧力によって、ぼくが髪を切ったからといって、それは停滞からの断ち切り、にはならない。
むしろ、停滞という状態をあらわしている見た目が、他者によってある種無理やり損なわれることによって、心とからだの不一致が生じる。
ぼくは早く寝たいのに、何者かにカフェインを飲まされて、ずっと起きているような状態。
そして、その状態は続かざるをえない。
髪を切った、短くなった、という事実は、ぼくの日常につきまとう。
ドライヤーをしなくてもよくなった、髪を結ばなくてよくなった、というところで強制的に、意識させられる。

いまのぼくにとって、髪を切るということは、必要ではない。
自己イメージにおいても、他者イメージにおいても。
なのに、強制されるようにして切るとしたらそれは、休みの日なのにスーツを着てベッドで寝るような違和感とともに生きるような感覚に等しい。
「休みの日の家のなかくらい、好きに過ごさせてくれよ」と、ぼくは思ってしまう。
休日の過ごし方すらも強要されるなら、それは休日ではないのだから。

たぶん、いまのぼくは、自己イメージが、社会的な抑圧によって切り取られたときに、修復ができない。
社会的抑圧によって削られた精神と自己イメージの修復が、できる状態ではない。だから、その社会によって傷つけられたまま、損なわれたまま、切り取られた部分から壊死していきそうな感じがしていて、怖いのだと思う。
圧力に屈してかたどられた自己イメージは、停滞をも無理やり断ち切ろうとする。早く進めよ、といわんばかりに。

そうすることで、ぼくのからだとこころは離れていく。
髪という身体が、社会からの要求に屈したという心と乖離して、「ぼく」のあり方がわからなくなってしまう。
あるいは、「ぼく」が消えてしまう。
どこにも属していない社会の構成要因である社会人なのに非社会人として人ではなくなっていくような感覚。
そうなったとき、ぼくはただの物質だ。

この伸びた髪は同時に、社会からの被虐をも意味している。
社会の流れに乗れていないからこそ、抑圧から逃げることができているからこそ、それは同時に、社会から虐げられているということでもあって、自己イメージとも重なっていく。

これは、死生観の問題だけれど、ぼくは死ぬことそれ自体はあまり怖いと思わない。
痛いのは嫌だし、苦しいのは嫌だ。だけれど、「死」それ自体に、痛みや苦しみがないのなら、怖くはないと思う。そしてそれは、死んだらこの人生は終わりだと思っているから。
そういう意味では、強烈な痛みが継続的に続く、というのが嫌だ。
心身ともに。
だから、髪を切る、ということによって残された「違和感」をもったまま、しばらくのあいだ、生きるということが、とても怖く感じる。
その痛みは、いったいだれが引き受けてくれるというのか。
社会は、他者は、強要するわりに、ちっとも保証なんてしてくれないのだから。

ぼくはいま、社会と、あるいは世間と、距離をとっている。とられている、のかもしれない。
いずれにしても、社会や世間というものと、大きな距離がある。
個人と個人のつながりにしたって、極端に少ない。
これは同語反復になってしまうのかもしれないけれど、そのようにして距離があるからこそ、社会からの抑圧を気にしなくなったし、他者イメージを機にする機会もなくなったし、髪が伸びた。
髪が伸びて、そして気にしなくなって、冷静に考えたら、自己イメージとしても他者イメージとしても、社会からの要求にしても、髪を切る理由に至らないということに気づいた。

ぼくとぼくは一致している。
社会とぼくは、乖離している。
そして、乖離していて、よいのだと思う。
社会の価値観とぼく自身の価値観がすべてイコールで結びつけられてしまったらそれは個人の放棄だ。
社会とぼくとの距離感、そして、そのちょうどよい具合が、髪の長さにあるのかもしれない。もちろん、その距離感はコロコロかわるのだけれど。

ただ、むかしから、社会にとっての「当たり前」は、ぼくにとっての「当たり前」ではなかった。当たり前の理由を聞いても答えてくれる人はいなくて、「そういうものだから」と割り切るようにさとされた。
ぼくは、「そういうものなのだ」とは思えなくて理由について考えた。
結果は「そういうものだと、したい人たちなのだ」ということ。
考えることを諦めて、流されるほうが、はるかに楽だ。こんな疑問を持っていても、「へんなひと」として、みられるだけだから。
社会の「流れ」にはついていける気がしないし、いく気もあまりなくて、距離をとれるのであれば、とろうとしているのかもしれない。
そして、いろいろな事情があって、いまは距離がとれている。

そして、これは、最近気づいたことで、みられることは疲れる。
もう少し正確にいうなら、みられることを意識することは、疲れる。
人と話している時、ぼくはみられているな、と、普段は考えない。
そこに意識をむけない。むけないようにしている、のかもしれない。
けれど、オンラインの会議で顔を出した時、ぼくは強烈につかれてしまった。
それはパノプティコンのような監視としての面もあると思う。
ただ、もう一つに、画面に映し出され続ける自分の顔を向き合い続けなければならない、ということも要因として大きい。

その画面は、鏡を目の前に常に置かれるように、そして人の目線が明確にディスプレイに映っているがために、みられることを意識せざるをえない。
ああ、そのことを意識するのは、こんなにも疲れるのだな、と思う。
それは、ぼくが今、人からの目線を受ける機会が少ないというのもあるだろう。
社会からの目線を受ける機会も少なく、またそれらを意識しないように日々を過ごしているなかだからこそ、「ある」ということを意識することへの抵抗と疲労感があるのだと思う。
目線には要求があるように、思えてしまえて、自分をその目線にあわせるようにしてしまえば、自分にとっての自分と離れていく。
その距離を感じながらも、自分を自分として保つということは、崩れやすいものを持ち続けるような作業だ。

そんな要求としての、抑圧としての視線は、世界に点在している。
それを意識し続けて生きる、なんて。無意識だとしても受け続けながら生きる、なんて。
そこからの解放の象徴という意味も、きっとこの髪の長さにはある。


社会は、世界は、「そういうもの」で溢れている。
だけれど、その一方で、世界にはたしかに「ぼく」がある。


なんだかこの章に関しては、うにょうにょしていて、自分でもうまく書けていないという実感がある。
スタート地点と目的地はわかっているのに、いざ地図をみてその目的地に行ってみると入り口は逆側ですと言われて、また違う道を探しているような。
…ああ、停滞のことを書いているからなのかもしれない。
だから、停滞しているような、道に迷ったような文章なのかもしれない。

髪の長さを考えて、その文章までもがそんなところに影響を及ぼすのだから、それを断ち切ることの怖さは容易ではない。

7.髪を切るのが怖くなった理由 / 人はなぜ髪を切るのか

ここまでいろいろ書いてきたけれど、たぶん、ふつうはこんなに髪を切ることについて考えないと思う。
だから、何を言ってるんだこいつは…と思われるかもしれない。

それは、髪を切るということが、「当たり前」だと思われているからかもしれない。
髪を伸ばして、というか髪が伸びて、それが当たり前ではなくなって、そして髪を切るということに直面したからこそ、ぼくはいろいろと考えた。

あなたは、だれのために、なんのために、髪を切っていますか?
自分のため?
誰かのため?
それとも、切らないといけないとされているから?

けれど、髪を切ることは、義務ではない。

義務に雁字搦めにされてしまった生き方は、つかれる。
義務から逃れて、あるいは社会から逃れて、または人から逃れた結果としてのこの伸びたは髪は、いまのぼくの、社会とも人ともほとんど関わりがなくて、停滞していて、それでいてどこか自由なありかたの延長線。

それを去勢のようにして切られることの恐怖がぼくにあって、
強制を受けることのこわさがにあって、
自己イメージの崩壊の可能性があって、
社会との距離を急激に縮められるような圧迫感があって、
ぼくがぼくでなくなっていくような感覚があって、
同時に切らないことによって、今は、ぼくはぼくとして、保っていられる。

逃げた象徴?孤独の象徴?時間の象徴?
もちろん。
そしてまたそれは本来何者にも立ち入ることのできない、いまのぼくの象徴。


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