24歳はじめて父親を知る、の巻

1999年の秋に生まれ、2024年5月8日。はじめて自分の父親を知った。

24年間ずっと、我が家では父親はいないものとされていた。というか、家族の誰1人としてその正体について私に話そうとしなかったし、私も聞こうとしなかった。

小学3年生くらいだろうか。友達に「お父さん」なるものが存在することを知り、「自分の家にはいない」ということを認識した。片親の家庭が、両親いる家庭に比べて馬力が劣るのは当然のこと。裕福ではなかったが、母はとにかくよく働いた。幼い私を祖母に預けて、県外に行ってまでも。

2歳から8年間、海を隔てた遠方にいる母からの電話に「何話せばいいかわかんない。恥ずかしいから」と言って出ないこともあった。8も離れた姉は年頃で、転校を嫌がったらしい。そりゃあそうだと思う。ひとりっ子で、兄弟姉妹が羨ましかったという母に、姉妹を引き離す選択肢はなかった。母と祖母の間には、お金がらみの確執もあったと聞いた。祖母が振り回したのだろう。

その1つひとつが、今となっては想像に易い。しかし、当時の私にそんなことなど分かるはずがない。分からなさすぎて、誰かを憎むこともしなかった。物心ついたときには特殊な環境が出来上がっていて、無知な子どもはそれを受け入れることしかできないのだ。でも、誰も悪くないことを、どこかで分かっていたのかもしれない。母はどんな思いでいただろう。母が私の元へ帰ってきたのは、小学4年生の頃だった。

と、いうわけだから、私にとって、会ったこともない父親の存在など心底どうでもよかった。母が戻るまでの私には、一緒に暮らしていた祖母と、8個上の姉、ひぃばあちゃんと、その介護のために同居していた祖母の弟が全てだった。時折、母の古くからの友人が私を気にかけ、遠くへ連れ出してくれたりした。当時の私は寂しい思いをしたかもしれないが、決してひとりぼっちではなかった。色んな人の世話になって、みんなに育てられた。

そして2024年5月8日。祖母の家の床のベタつきが気になっていたので、仕事帰りにスプレータイプのウタマロを買って行った。祖母の弟(以下、おじさん)がいた。おじさんは「掃除したらいっぱい出てきたんだよ。仕分けして持って行ってくれない?」と、写真の束を持ってきた。写真に映る赤ちゃんは、おそらく私ではなかった。その後ろで嬉しそうに笑う男性がいた。お姉ちゃんとそっくりだった。

「これ父さん?」「ねぇ、私とお姉ちゃんって父さん違うよね?」と聞くと「うん、違うよ」と返ってきた。やっぱりなあ、と思った。私が物心ついてから1度も現れなかった父と、8年も間を離して子どもを2人、とは考えにくかったから。それに、私と姉は、あまり似ていない。もちろん「母」という共通点があるから似てはいるのだが、父親という第三者が2人いるかもな、という程度には似ていない。父親が第三者ってのも面白い話だが。

続けて「じゃあ私の父さんは誰なの?」と聞くと「カズちゃんさ〜!(仮名)」とおじさんは言った。周知の事実であるかのように、サラッと言った。その「カズちゃん」とは、幼い頃に私を可愛がってくれていた、母の友人だった。マジかよ、と思った。その人の名前には、私の実名の一部が入っていた。おい母よ、何を伏線張ってくれてんだよ。分かりやすいことしてんじゃないよ。

幼い頃、母とカズちゃんが肩を寄せ合っているのを見たことがあった。もうどこへやったか分からないが、母の友人たちの冷やかしコメントが書かれている2人の写真を、こっそり私の宝物にしていたことがあった。3人で川の字になってベッドに寝転んでいたとき、私が母のブラジャーをどこからか持ってきて、「めがね〜」と、カズちゃんの顔に被せたこともあった。

「今思えば、2人は付き合ってたんだろうなぁ」という程度でぼんやり思い返していた記憶たちが、バン!バン!ババン!と脳内にフラッシュバックした。面白いくらいパズルのピースが合っていく様に、辻褄が合っていく様に、映画かよと思った。

じゃあなぜ、彼は父親として私に認識されていないのか。次はその辺が気になった。聞くと、どうやら私ができた当時、カズちゃんには奥さんがいたらしい。その奥さんと関係が続いていたのか、破綻していたのかは分からない。だけど、いたらしい。そして、その奥さんと別れる別れると言って、結局別れなかった、ということらしかった。つまりわたくしは、不倫してできた子どもだったというわけだ。

ドラマかよ!映画かよ!小説かよ!そりゃあ堂々と娘に言えないだろうね。私ができた当初、母はカズちゃんが既婚者と知っていたかどうかも分からない。そもそも、この「おじさん」という情報源はちょっと怪しかったりする。ただ、私の父親がカズちゃんということには「それしか考えられない」としきりに言っていたので、そこは合っているのかもしれない。

カズちゃんは私が娘と知っているのだろうか。知っていたとして、娘と思っているのだろうか。養育費は払ってくれていた?ここからは、母本人に聞くしかなさそうだ。

これまで、母が父親について言及しないのは、何か言いづらい事情があるのだろう、あるいは言いたくないのだろうと思っていた。だからこそ、聞かないことが優しさのつもりだった。

いない父親だが、父親。でもいない。改まって言うことでもないが、大事なことでもあるという点で、単純に言う機会がわからなかったのかもしれない。今は、こちらから聞くのも優しさの1つかもしれないと思い始めている。もちろん、私だって聞くのが怖かった。(父親が刑務所出身とか、小指なかったりしたら…という恐れ)ある程度の事実を知ったからこそ、聞いてやろうかしらという余裕が生まれたのはある。もっとも、このことに関して私が優しさを発動させる必要もないのだが。私は私なので、私のやりたいようにやればよかったのだ。

ちなみに姉は、自分の父親と何度か会っているらしい。ここまで何も知らなかったのは私だけだった、というわけだ。知らないでいてやった、知ろうとしないであげたという節もあるが…。この書き方から分かるように、多少の怒りは湧いた。だが、誰が悪いという話でもない。それだけは、知る前と、知る後で変わらない。

冷静なように見えるかもしれないが、かなり胸がザワザワした。そしてすぐに友人に電話した。「事実は小説よりも奇なりだね」と言っていた。続いて、帰りがけに恋人に電話していると、道端で、迷子のベトナム人のおばあちゃんと、孫を保護した。突然話しかけられ、意地でもベトナム語しか話さないくせに、なんか困っていそうだったので、捕まえた。人生で初めて警察に通報した。かくかくしかじかで、その娘が迎えに来た。色んな人を巻き込みながら、ベトナム人たちも、私も助かった。なんだよ5月8日。そして今日、心労に耐えかねて仕事を休んだ。母は「ありえん。簡単に休むね」と言った。おい、と思った。

おじさんとは「私は何も聞いていない、見ていない。よってこの写真も持ち帰らない」ということで着地している。母はそんなことも知らずに、今朝もまた昭和節をきかせていた。ベトナム人との一件は知っているので、「それくらいで休むなんて」という風に。

人生、面白すぎる。が、疲れる。悪くはないけど。気持ちの疲れがモロに身体に出ており、微熱も出始めたし、すごくだるい。ショックを受けているというより、すごく疲れている。またうつに突入するといけないので、病院を探そうかなと思っている。心得なければ。ポンコツの乗りこなし方を。ほんと人生って色々で飽きないですね。みなさんもご自愛くださいね。

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