見出し画像

私のものさし


意識的に「ものさし」を持つことが必要であると考える理由

何かをはじめようとするときは、そのゴールを定めたほうがよいだろう。
「その何かをすることによって、なにを達成したいのか?」それを明確にできると、その何かを続けていく上での致命的な過ちを防ぐことができるし、自分を見失うことがなくなるだろう。


そのゴールを定めるにあたって「ではなぜそれをゴールとするのか?」を考えるとよりよいのだが、そのためには自身が何を基準として生きている、あるいは生きていきたいかということを明確にする必要性にせまられる。つまり、自身の「ものさし」を持っていなければならないことに気がつく。


各人にものさしにあたるものがまったくないということはありえないだろう。それぞれが歩む人生の中で得た経験や出会った人々によって、無意識的にそのものさしはつくられている。同じ事柄に遭遇しても人によって対応が異なるのはそのためである。


とはいえ、そのものさしを明確に意識している人は少ないのではないだろうか?様々な事柄に対応するにあたって、その無意識的なものさしを元に様々な判断をくだしてはいる。そのものさしと合致している決断をくだせる状況にあるならば、意識してもしなくても結果は変わらないだろう。では、ものさしとずれていることを行おうとしたらどうだろう?そのときにこそ、ものさしが意識的なものか無意識的なものかの差が生じる。


ものさしとずれたことを行おうとすると、おそらく、違和感を覚えるはずだ。なんとなくそれはやりたくない、それはまずいのではないかと。しかし、それがまずいということを第三者にわかってもらえるほどの根拠もなく、説明もできない。それどころか表面上、それをやらないことのほうがまずかったり、やることで利益があるというとき、自身が覚えた違和感と表面的な損得・周りへの影響とのせめぎあいがおこる。


ここで、もし自身のものさしが意識的なものであれば、「それは私の主義に反するのでできない!」と強く決断できるだろう。自身に明確に説明がつくからだ。無意識的なものであれば、自身の違和感の説明を自身にすら説明できず、表面的な損得など自身の外にある基準で判断してしまうことになるだろう。


自身のものさしとずれたことをおこなえば、その結果が例え表面上よいもの(だいたいそれは、自身の外にある基準でのよいもの、だ)であったとしても、自身の違和感はそのまま残り、その先ことあるごとに「本当にあれでよかったか?」と自問自答し続けることになるだろう。


そのようなことにならないためにも、やはりものさしは意識的に持っておく必要があると考えるのだ。
以上が、私が「ものさし」を定めようと考えた理由である。


「私のものさし」は何であろうか?

私は何を基準として生きてきただろうか?そして、何を基準にして生きていきたいと思っているだろうか?


私には今、やろうとしていることがある。それは、適材適所を実現する方法を見つける、ということだ。それをすることが、適材適所の実現につながり、その実現がなされた先にある景色を見ることが最終的なゴールである。
その景色とは、皆が各々の定義する幸せの中にある状態である。絵的に言うならば、皆が笑っている景色である。


では、これをゴールとするのはなぜなのだろうか?それは、ゴールとする絵の中に答えがある。その絵の中には私がいないのである。私はその景色を見ている存在なのである。私はその景色を見てほっとしている。その状態が私が目指すゴールである。


どういうことかというと、私は、自分の状態よりも周りの状態、全体の状態を重視しており、全体の利益を優先させたいということなのである。もちろん私も苦しいことや辛いことは嫌なので、全体の利益のために喜んで犠牲になるという精神まで持ち合わせているわけではない。ただ自分のためにそこまで多くは求めないだけである。長生きしたいわけでも、どうしても生き残って成し遂げたいこともない。どうしても(いわゆる世の中でいうところの)成功をしたいわけでもない。何なら、苦しみを伴わない方法さえあれば、もうこの世からいなくなりたいくらいなのだ。


自分の力は小さく、全体への貢献も非常に少ないだろう。しかしながら私は今持てる力すべてをつかって、限界まで考え抜いて、私ができることをしたいのである。
私は自分がなぜ生まれてきたかわからないし、今まで生き延びたこともたまたまなんだろう。それでも、今生きているのは、きっと私には役割があるからなのだ。割り当てられた仕事があり、それをこなさなければならない。そう信じているのである。そう信じることが、私が私を殺さない理由で、今生きている理由の一部といえる。


そう、私には役割がある。そして、その役割を果たす。私が設定したゴールを目指す理由は、そのゴールを目指す中に私が果たす役割があるとみたからだ。


私は何を基準として生きていくのだろうか?私が生きている理由は、私に何かしらの役割があるからだ。そしてその役割を果たすために生きている。そう考えると、私が果たすべき役割がそこに存在しているかどうか?を基準としていることになる。私は私の役割を果たす。これが「私のものさし」なのだ。


どこにいても、どんな状況でも、私は私の役割を果たす。果たすべき役割がこの世のどこにもなくなったその時こそが、私がこの世からいなくなるときなのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?