冬籠(第27回ゆきのまち幻想文学賞へ応募、加筆修正)

高い山の傾斜にあるこの村では今、どっしりと降り積もった雪が地面を固く閉ざしております。僕達村人は一日の多くを家の中で過ごし、火をおこした囲炉裏の前に集まる冬篭の時期を迎えておりました。近年国中で広まった文明開化の恩恵はまだここに届かず、僕達は貧しい暮らしのままです。
数えで十三になる僕は、夏に流行った病で家族をみな亡くし、同じ村に住む叔父夫婦の元に住まわせて貰っておりました。
僕は彼らの迷惑にならぬようにと懸命に働きましたが、意地悪い叔父に食い扶持が一人増えた事を疎まれ、毎日の様に罵声を浴びせられ、多くの仕事を命じられます。そんな僕へ、他の村人達は哀れみの目を向けても助けてまではくれません。皆、自分の生活で手一杯なのです。僕の事を本当に想ってくれる人は、この世にはもう誰もいないのでした。
 ある晴れた日、僕は往復で一刻程かかる家へ届けものをしに行くよう言われ、その帰りに突然の吹雪に遭い、目の前が真っ白になりました。
 どこへ向かっているのか分からない足をひたすら進めていた僕は、気付けば懐かしい我が家へ辿り着いておりました。家族が僕を呼んだのでしょうか。とにかく一度家の中に入ろうとしますが、疲れ切り、その場に座りこんで動けなくなります。このまま死ぬのかしら。それなら早く死のうと投げ遣りに思いました。そうすれば家族に会えますし、この世に僕がおらずとも誰も悲しみません。
 僕の目から涙がこぼれ、雪に落ちます。その滴だけが唯一暖かなものでした。その時です。何かの気配を感じ、僕は導かれるようにそこへ向かいました。
 家の正面まで来ると、入口の前に横たわる一人の女の人がおりました。僕より少し年上に見えるその人は裸足で、染み一つない白い着物だけを纏っております。目を閉じて眠り、死んでいるようにも見えます。
ですがやがてその黒い目が薄く開かれました。長い睫に乗っていた雪がふるい落ち、女の人は気だるげに僕を見ます。すると僕の心臓が激しく脈打ち、体中に流れる血が噴き上がり、耳の奥で脈打つ音がうるさい程に聞こえました。凍えていた体が、冬から春に息を吹き返す獣のような心地で目覚めてゆくのが分かります。
 初めての体の感覚に戸惑い、どうすれば良いのかも分からないまま、僕がその人にぎこちなく笑いかけると、その人も僕へ笑みを返してくれました。誰かに笑って貰うなどどれだけ振りでしょう。虚ろながらも彼女の眼差しは暖かく、孤独な僕の心を解してくれる不思議な力がありました。
 そして女の人が鉛色の空を見上げると、まじないがかけられたように吹雪がやんで晴れ間が現れ、彼女の周りの雪だけが見る間に溶けだした為、僕は目を瞠ります。ですがそれはほんの僅かな間で、女の人はま 再び眼を閉じてことんと眠り、また雪が降り始めました。今さっき、彼女が雪を止めたように見えたのは気のせいだったでしょうか。僕は、村にある昔話を思い出します。
 空に近いこの村では時折、天に住まう方々が降りて遊びに来られるか、足を滑らせて落ちて来る事がある。彼らが再び天に帰る日まで丁重にもてなせば恵みが、無礼を働けば災いが与えられると。今より幼い頃には疑いもなく信じていたその迷信が、不思議な彼女の姿から思い起こされたのでした。彼女は天に住まう方なのでしょうか。
 ですがこの人の正体が何であろうが、僕にはどうでも良い事でした。
 僕は今、一つの考えに捉われておりました。天でもどこでも構わない。笑ってくれたこの人が、僕の前からいなくならないよう、誰かに知られて引き離されてしまわないよう、隠してしまおうと。
 僕は女の人を抱え上げます。触れた体は死を思わせる冷たさでした。家の中へ運び、紐で彼女の片手首を縛って柱と繋ぎ、万一誰か来ても見つけられないよう物と物の間に横たわらせ、家の引戸を固く閉じました。
 その後の記憶はありません。僕は叔父の家で目覚めました。聞く所によると、高熱で三日間眠り続けていたそうです。かつての家の前で倒れていた所を、通りかかった村人が助けて下さったそうでした。
 叔父もこの時ばかりはばつが悪そうであり、普段は彼の言いなりである気弱な彼の妻も僕を甲斐甲斐しく看病し、労りの言葉をかけてくれたようでしたが、そんな彼らの様子は、僕の心に少しも響く事はありませんでした。
 それよりあの女の人の事が気がかりでなりません。熱のせいか記憶が曖昧で、あの日の全てが夢であったようにも思えます。けれどそんな筈はない。僕は彼女を確かに見ました。
 五日後に回復した僕がかつての家へ向かうと、そこにはやはり件の彼女がおりました。僕は胸を撫で下ろし、冷たい空気の中、眠るその人を見つめ続けるのでした。
 僕はそれから、時間を見つけては女の人の元へ足を運ぶようになります。叔父に嘘をついて向かう為にばれた時が恐ろしいのですが、女の人の存在を確認せずにはいられません。
 彼女は目覚める気配を一向に見せず、暖をとる事や食べる事をせずとも問題はないようでした。やはり人ではないのでしょうか。彼女を傍に置きたいと思う一方、畏れ多くも感じて、初めて出会った日以外その人に触れはしません。度々姿を消す僕に、叔父は不審な眼を向け始めるのでした。
 やがて暦の上では暖かくなる時期となり、ここより下の村では蕗の薹などの春の菜が採れ出したと聞きましたが、この村にはそんな兆しさえありません。長引く寒さから、病弱な叔父の妻は体の不調を訴え始めます。苦しげに咳込む様子を見ると、僕は胸を錐で刺すような後ろめたさを覚えました。もしかすれば、僕があの女の人を閉じ篭めている為に村に災いが生じ、冬が長引いているのかも知れないと。けれど僕はそれに気付かない振りを続けました。
 降りやまない雪の中、ただじっと冬篭を続ける、とり残された僕ら村人たち。閉塞的な日々の中で、眠る女の人の傍にいる間だけが、僕が安らげる唯一の時でした。
 やがてある明け方に、叔父の妻は亡くなります。夜中眠っている間に息を引き取ったらしく、穏やかな死顔でした。
 僕は叔父の妻を気の毒に思い、悲しげである叔父に同情する反面。良い気味だと暗い喜びを感じている事に驚きます。自分が浅ましく思え、逃げるように女の人の元へ走りました。今日は少しばかり暖かく、ここ何日か降り続けていた雪が徐々に溶け始めておりました。
 急いでかつての家に着いた僕は、普段はすぐに引戸を閉めるのに忘れて開けたまま中へ入り、縋りつくよう、女の人の白い手に触れてみます。するとその人は眠ったまま、僕の手を確かに握り返してくれ、それに許されたような心地になりました。僕の独り善がりなのでしょうけれど。
 僕の背後から突然アッ、と息をのむ声が聞こえました。振り返るとそこには叔父がおり、開いた引戸から驚いた様子で僕と女の人を見ておりました。僕の跡をつけて来たのでしょうか。女の人を見つけられた事で怒りがこみ上げた僕は、来るなと叫んで叔父を追い返そうと外に出ました。その時です。雪面に幾つもの深い亀裂が生じだし、不気味な静寂があたりに満ちました。
 僕と叔父は示し合わせたよう、女の人を見ました。僕の大声が切欠となったのか、それとももう目覚める時が来て、僕が閉じ篭めておく事が出来なくなってしまったのか。彼女の睫がぶるぶると震え、目蓋がばっと開かれ、吸いこまれるような大きく黒い瞳が現れました。
 次いで上から轟音が鳴りだし、次第に大きくなります。見上げれば、雪崩が木々や家々をなぎ倒しながら濁流のように押し寄せて来ておりました。その幅は村を覆う程です。僕は立ち尽くし、叔父は悲鳴をあげて駆け出しましたが、一度立ち止まって僕に言いました。お前も逃げろ、早くこっちへ来いと。
 その時になって僕は初めて、意固地になって独りぼっちだと思い続けていなければ、叔父とも少し位は分かり合えていたかも知れない、と思いました。幾つかあったかも知れないその切欠に、僕は気付かない振りをしていた。けれどもう遅過ぎる。
 迫る雪の音を聞きながら、僕は叔父へ首を振りました。彼女を閉じ篭めたのは僕なのですから、どうなろうとも終わりまでここにいるべきなのです。
 悲しげに走り出す叔父の背へ、逃げ延びれますようにと僕は願いをかけました。
 僕は彼女を見ますが、彼女はちっぽけな子供の事など気に留めてもてくれません。愚かしくも彼女へ恋した僕への、これは一つの罰なのでしょう。寂しく笑った所で僕は雪の塊に押し流され、全てが分からなくなりました。

 長い間押さえこまれていた季節が堰を切って巡り、大気が暖められた事で起こった雪崩は村に壊滅的な被害を与えた。まだ早朝である為に眠ったまま亡くなった者ばかりだったが、生きている者もいた。人々を救助しようとする声がそこかしこで響く。
 雪が払われた土中では虫の群れが泳ぎ、土の殻を裂いた植物が花開く。花の香りに誘われた蝶が一羽、仰向けに横たわる少女の鼻先を通過した。その少女は、頭上の雲間からこぼれ落ちるように開かれる空の青を瞬きもせず見つめ続けている。かつてそこにあった筈の家は跡形も無くなっていたが、彼女は無傷であり、その周囲だけ雪が完全に溶けていた。
 煙たいほどの萌芽の匂いを纏った風が流れ、冬を耐え抜いた鳥達は歓びに歌う。少女は微笑み、そのまま眠るように目を閉じる。その体は瞬く間に溶け、雪解け水と共に消えた。
 気まぐれに人の世に降り立った、少女の姿をなした春の神。彼女がいた場所では殊更に花が咲き乱れ、それは一斉に四方の大地へ広がり始める。
 そうして、この村に春は訪れた。

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