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びっくらたまごは変わらない 2021/11/16

日記

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・ドデカイ尿結石。

・ではなく、溶けている途中のびっくらたまご。久々にびっくらたまごをお風呂に入れたけど、昔となにも変わっていなかった。幼少の楽しい記憶のまま、びっくらたまごはそこにある。お風呂を出るときに、溶け残ったびっくらたまごの欠片が見つかって、なんかちょっと嬉しくなるのもそのままだ。そんなことで嬉しくなっている私の感性が成長していないだけという見方もあるが……。


・今日も今日とてびっくらたまごをお風呂に入れた以外の記憶がないな。またもや外へ出なかった。


・読んでいる本に「コロナ禍で個人の小さい物語の行き場が失われている」というようなことが書いてあった。私も去年の春あたりに同じようなっことを考えていて、もっと個人にフィーチャーしたコロナの話を聞いてみたいと思っていた。

・でも、コロナが日常のものになるにつれて、自然とコロナ禍での小さな話は増えていき、むしろ、コロナ前よりも小さな話を聞く機会が増えた気がしている。どこそこのお店が潰れそうなんです!という話なんて、前はああそうですかで済まされていたのに、今は店主が歩んできた人生とか、その店が地域でどのように愛されてきたかとかまで語られて、いろいろな人の心を引き止めている。一般人の話にしても、「コロナ禍でどう過ごしていたか」「コロナ禍で何が変わったか」という、ごく狭い、個人的なことが"物語"として語られはじめている。大きな災害があったときはそういう小さな物語が多く生まれるものだけど、疫病だと規模が世界にまで広がるので、生まれる物語の数も桁違いになる。

・あまりにも巨大な問題が出現すると小さな物語は影に隠れてしまうが、同時にその影の中で小さな物語は成長し、溢れ出すというのはなんだか不思議だ。

・私がコロナ関連のニュースでよく覚えているのは、コロナで運動会が軒並み中止になり、「玉入れの籠」を作っているメーカーがピンチに陥っているというものだ。これは小説や映画では絶対にカバーできないし、想像もつかない、現実が現実たりえるものだなと思った。


・たいした考えもない人が時事問題に触れると、こういうスッカスカの文章ができあがる。何らかの罪に問うた方が良い。

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