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けど 2021/05/08

日記

・今日はやる気が出ない日だったから、オ授の最中も寝転がって開脚運動をしたり、フィギュアをいじったりして話の1割くらいしか聞かなかった。やる気がない日はとことん何もやらないぞ。兄には「やる気がないときはやる気を出すんだ」と言われたけど、そんなことができる人間は若田光一ぐらいだろ。

・何回調べても「くらい」と「ぐらい」の使い分けを忘れてしまう。忘れるたびにNHKの放送文化研究所を読んで確認して、そしてまた次の機会には忘れている。一番最初に「どちらでもかまわない」と書いてあるから、まぁどっちでもいいっちゃいいけど、なんかこう、心の中に住む面倒くさいジジィが「日本語の乱れがサァ……」とかネチネチ言ってくる。自分がまずやるべきは「くらい」と「ぐらい」の使い分けを覚えることではなく、心の中に住む面倒くさいジジィを殺すことだ。


・あと、日記を書いていてよく思うのは、私はすぐに「けど」で文章をつなげようとしてしまうということだ。1日の日記で10回くらい「けど」を使っているぞと気づいてからは、意識的に使わないように気をつけているけど、書いているともう自然と「けど」が出てくる。ここまででも3回「けど」を使っているし。文章をつなげるときの語彙が「けど」と「〜ものの」しかない。

・ただ、使わないように意識したらしたで書きにくくて仕方ない。無意識に「けど」と打ち込むたびにいちいち言い換えを探したり、文の構造を変更するのはあまりに面倒くさい。調べると、「「けど」は逆接のときにだけに使いましょう」とか出てくるけど、実際にこっちは逆接のときにしか使っていないんだ。「けど」の多用というよりかは、逆接の多用かもしれない。

・毎日日記を書いていると、自分の文章のクセが嫌でもわかるようになり、「こいつ同じ言葉ばっかり使ってるじゃん」と意識するようになるのでどんどん書くのが億劫になってくる。人の書いた文章を読む分には全く気づけないから、かなりどうでもいいことなのだとはわかっているけど、自分で書いていて気持ち悪くなる。書いて、自分のクセに気づけば気づくほど壁際に追い込まれていくって、こんなバカなことあってたまるか。小沢健二の「ローラースケートパーク」の歌詞にある「ありとあらゆる種類の言葉を知って、なにも言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ」ってこういうことだろうか。

・同じ作家によって作られた作品を見ていると、結構ネタ的なものを使いまわしているのに気づくことがある。坂元裕二は「ボーダーは他の人と被る可能性が高いから着ない方がいい」という話を少なくとも2作以上の作品で使っていたし、小林賢太郎も同じことをいろんな作品で言っていた。さすがに気づかずに使っているとは思えないので、たぶん意図して使っているんだろう。「まーた同じネタかい」と言われても、すました顔で「はい」と言える鉄の意思。それが必要なんだと思う。

・だから私は「けど」を多用しまくるし、「という」も「こと」もやたらめったら使うし、文末は「思った」「感じた」「考えた」で締める。悪いかよ。こっちは坂元裕二と小林賢太郎が後ろ盾だぞ。

・こうやって書くと自分を坂元裕二と小林賢太郎と同レベルの人間だと思ってる人みたいだな。

・思ってるよ。


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