働き方改革が日本を弱くすると思う理由


私が上海にいる数年前に、賛成多数で可決された働き方改革慣例法案。いわゆる、働き方改革。
主に、長時間労働の是正や賃金関連の見直し(同一労働同一賃金等)が主な改革の柱、というものだ。

私が上海から、春節明けに戻った2020年1月20日。春節が明けたら、上海に戻る予定だった飛行機の予約は2月20日。上海に拠点を移して初めての長期日本滞在だった。

ところが、中国国内のコロナ感染数が上昇し、様子がおかしくなってきたため、GWまで様子を見ようと考えた結果、今、まる2年2か月、日本にとどまっている。

そしてその間、日本にいて感じるのは、日本の労働環境の硬直化と、労働意識と意欲の低下、だ。

私が上海で起業した2011年こそ、終業ベルと同時に帰宅する労働者(ホワイトカラー)は確かに多かったが、あっという間に環境は大きく変わり、若い人たちが起業したり、積極的にスカウトに応じたり、と仕事を楽しみ始める姿に変化していった。

ところが日本では、かつて仕事を謳歌していた人たちは窮屈そうにし、若い人たちの中に仕事を楽しむ姿をあまり見ることがなくなってしまったように映った。資源を持たない日本が、JAPAN AS NO,1でいられたのは、平均点の高い人材から生みだされた「品質」だったのに。

今、私が、このままでは日本がますます脆弱になっていってしまう、と危惧する点は以下の二点だ。

① 仕事の質が明らかに低下し続けていること。

上司が残っていると帰れないというような義理堅い残業や、サービス残業という名の、自己犠牲がなくなることは大賛成。
しかし、仕事の質は、ある一定の仕事の量で支えられていることが忘れられていないか。
スポーツも勉強も、ある一定量をこなさなければ、身につかず、熟練しない。練習無くしてオリンピック選手にはなれないし、学習なくして東大には入学できない。日本の仕事の質が低下しているなあ、と思うのは、この質を支える量の低下ではないか、という気がしてならない。

② 仕事とプライベートは別、という風潮が若い人たちを迷わせている。

仕事は本来その人自身の生き方の選択の一つであり、本来、プライベートと仕事をかっちり分けられるものではない、ということを誰も教えていない。

例えば映画を見て仕事のヒントを得ることもあれば、公園を散歩しながら、思いつくアイディアだってある。逆に、仕事を通じて、自分の生き方、価値観を変えることもある。大人になった時に、自分を成長させてくれる最も身近な存在は仕事だ。
経済的にも、精神的にも自分を豊かにしてくれる仕事を、完全にプライベートから排除したら、仕事は、単に時間で生活の糧を稼ぐものでしかなくなってしまう。

そうなった時、日本での仕事、労働が生み出す、付加価値は、時間の中でしか生み出せない、小さな小さなものでしかなくなってしまうのではないだろうかと危惧する。

働き方改革が推進されている背景には、少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少があるという。
これ以上、労働力を国内で賄うことができないとすれば、海外から労働力を補填するか、休眠している労働力を掘り起こすしかない。
いや、もっといいアイディアがある。それは一人一人の生産される品質を高め、量産化することだ。その手助けがテクノロジーではないのか。

それなのに、
単なる時間外労働の規制など、の時間の削減をするだけにとどまっていたら、当然、日本全体の生産性は甚だしく低下し、質もそれに伴い劣化する。

政治は短期的に雇用を守ることはできても、中長期的に雇用を維持することはできない。雇用をするかしないかの判断は政治ではなく、各企業の経営判断だ。

ここから先、ますます劣化する労働市場に、経営者は「雇用」という問題に当面、向き合わないとならないんだろうなあ、と思う。



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