猫飼ったことないのに猫飼いたくてしかたない話

猫飼いたくてしかたない。

猫飼ったことないのに。

犬も鳥もハムスターとかでさえも、
飼ったことないのに。

「猫」が、飼いたい。

なぜ「猫」なんだろう。
きっかけはあったはず。

私が小学生の頃、書道教室の帰り道に1匹の猫がいた。私は(猫なんて懐かないし触らせてくれないからキライ)と思っていた。我が家は狭く社宅団地で生き物を飼うことは両親に厳しく禁止されていたため、強がりの拒否感もあったろう。
ただ、その猫はちょっと様子が違った。
顔だけは出ているが顔周りから頭へ全部、首から上は真っ白な包帯でグルグル巻きにされてた。
書道先生の庭の駐車場の奥の隅っこで、ジーっと小さく小さく縮こまってスフィンクスみたいにこちらを睨んだ。

耳まで巻き込まれているから、猫か判別出来ないほどだった。
その猫は翌週もそこにいた。
先生に聞いてみたら、「うちに迷い込んできたのよ」と。

ガリガリに痩せて、痩せすぎて、カラスに突かれていたのを先生が助けたらしかった。カラスが首のところをたくさん噛んだこと、耳が欠けていること、先生が猫缶を開けてやると食べた途端にその場で飛び上がりぐるぐるん!と3回転したと言っていた。余りにも嬉しくて。

それを聞いて、帰り道見に行くとその猫はまた、駐車場の誰も入れない奥の隅っこからこちらを睨んでいた。

私は、テレビ番組でみたことを思い出した。
(猫は大きな声を嫌がるので、目を合わせず、興味がない振りをして、決して急に近づかず、猫から近づいてくるのを静かに待ちましょう)

毎週、毎週、私は猫を見に行った。
いるか確認出来たら、離れたところに座って静かにした。猫のことを見てはいたけど、猫がこっちを見たら慌てて目を逸らした。

大声で出てこいと怒鳴る子、
しつこくかわいいとはしゃぐ子、
汚いと言う子、脅かそうとする子、
皆んなが飽きて、
ついにだれもその猫を見なくなった頃、

私がいつものように猫から遠く離れた場所に座った瞬間、私の座る場所まで猫は、一目散に、真っすぐ走ってきて、私の手をクンクンとたくさん嗅ぎ、そうっと控え目な強さで私の手に頭を擦りつけた。それでも私は猫を撫でるのを躊躇していた。すると真っ白なお腹を出してゴロンと私の足もとに寝転んだ。

カミナリみたいな嬉しさが私をズガンと打った。

私は、猫が、子供だからといって見限らなかったのが嬉しかった。子どもだからとバカにせずに、私をみてくれた。 小学生の私には稀な経験だった。

私は、ただ、この世界に、君に危害を加える気のない人間も居るんだと言うことを伝えてみたかっただけだ。先生が、「誰かにギャクタイされたのかもしれん」と言ってそのまま押し黙った。小学生の自分にはうまく分からないけど、酷いことをされたということはなんと無く感じた。安全な人間と思われたかっただけだ。それは自分のためのことだった気がする。

猫は毎週、毎週、包帯が小さく少なくなっていった。私が教室に来ると寄ってきて、帰り道にまた寄ってきて、いつも撫でさせてくれた。
私は出来るだけ、怖がらせないように、そうっとそうっと撫でた。

そのうち、姿が見えなくなった。
先生にたずねると、もらい手がついたと。
大切にされていることを願った。
猫を大切にしてくださいと願った。 

ほんの少し寂しくて、私はそれからもしばらくは駐車場の誰もいない隅を見てた。毎週、毎週。


そんなことがあってから、でも特に猫好きということもなくその後の人生を送ってきた。

猫愛が爆発したのは、なぜか二十歳を越えてからだ。なぜか猫の写真集や猫のご飯手作りレシピの本を買ってウットリ眺めたり、なぜかホームセンターやスーパーでは意味もなく猫缶やトイレの砂など新商品をチェックしては悦に入ったり。
猫飼ったことないのになかなかの奇行に及ぶ程になった。


猫でなければならない。

猫を飼ったことがないので妄想の域を出ないが、猫はきっと愛情を先に注ぐ生き物なのではないか。その愛情に応えてくれる形で猫の愛情は注がれるのではないか。

ならばやはり猫でなければならない。
猫は、人間の愛情に応えるかどうか自分で決める。どの程度応えるか、応えないか、猫が決める。そのことに、心底安心感を覚える。
人間という支配者におもねることなく、臆することなく、生きている。
それがいい、それが一番いい。


やはり、猫でなければならない。
いつか、猫飼いたい。いや、飼わせて頂きたい。
感覚的には、お命の健やかな成長をお邪魔致しませんからぜひ拙宅にお住み頂きたく候。

猫飼いたくてしかたない。


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