娘が大変育てにくいおかげで

5年間の子育てを振り返って思うことがある。

正直に言うと娘は大変育てにくい子だった。
育てにくいなんて言っていいほど苦労してるのか?という謎の自己卑下感と、育てにくいと認めたくない謎の自意識で、なかなか周囲には言いづらかったが、育てにくいポイントは人それぞれ千差万別で許されるはずなので、ここでは自信を持って言おうと思う。



3歳までの娘を漢字一文字で表すなら
「怒」である。

とにかくとにかくずーっと怒って泣いてた。
当時の私は、自分の育児があまりにもヘタクソなのだろうと自信を完全に失って抜け殻状態だった。

あまりにも過酷な状況を、娘のせいだと信じたくなかった。だから自分のせいだと思い込んで心を折ってるほうがマシだった。この過酷さが、育児書にも載ってないネット調べても出てこないほどの過酷さを、娘のせいという結論にしてしまったら、「心底むすめを憎んでしまいそうで怖かった」から。それほど過酷だった。

最近になって、憑物が落ちたように娘は素直になった。私は何もしていない。時が、彼女の年齢的な成長が、全てを変えたのだ。

最近になって、私の母親がおそるおそる私に「自分のときはこんなに大変なことはなかった、正直すさまじくて貴女が可哀想だと思った」と打ち明けた。正直もっと早く言ってほしかった。

また、この土地に住んで5年間で沢山の「友人の子」と遊んだり触れたりしてきたが、私が抱っこしてるうちに寝てくれた子が複数人いて驚いた。私の抱きかたが特別にヘタクソなどということはどうやら無さそうだと目が覚めた。

娘は大変育てにくい子だった。


しかし、そのおかげで得たものがある。

私はヒトに何も勧めない。
私は、育児について知った気にならない。
私は、子どもについて理解した気にならない。
私には、子育てに関して「こうした方がいいよ」などという意見やハウツー的なものは一切持ち合わせていない。

何も上手にできなかったし、自信がないまま終わったからこそ、変な勘違いをしなくて済んでいるんではないかと思いたい。

自分の子に通じたからといって、よそさんの子にも当てはまる事柄なんて一つも無いかもしれない。その前提に力強く立てていると思う。

これがもし仮に、めっちゃ自分の育児が上手くいっちゃってたら勘違いしてたかもしれない。私のやり方がとても良いんだ、と。みんなもそうしたら良いのに、と。根拠もないのに、自分こそが子供のよき理解者になった気になってたと思う。そのことは、自分の力ではなくもしかしたら子供の力かもしれないのに。

自分の育児がとても上手くいったとしたら、その子供がその育児に合う素質を持っていてくれたという子供の手柄だった、それだけだった可能性ももちろあるわけだ。


私は娘のことが好きだ。
でも、正直大嫌いだと思ったことも何度もあるし、母親は子供のこと聖母的無償の愛で永遠にラブ…みたいな妄信にはNOと声をあげたい。
母親だって父親と同じ人間だ。

その上で、娘がめっちゃ大変で自分の思い通りにならなくて、いまは良かったなと思う。

私は勘違いしやすい人間だから、
きっと盛大に勘違いしていただろう。

人の悪口ばかり言ってる子を見つけたら「親が家で言ってるからああ育つ」とか、乱暴な言葉遣いの子を見つけたら「親がそういう言葉遣いなんだろう」とか、勝手に訳知り顔で決めつけて知った気になっていたような人間だからだ。

オソロシイ。
それが真実であると思っていた浅はかさ。

いついかなるときもそんな言い方したことないのに
覚えたてのことばを懸命につむいで
「どうせ私のことは抱っこしたくないんでしょ?」と、教えてもいない「ひがみっぽい性格」をいきなり披露されたときの衝撃たるや。。

ひがみっぽい性格の子は、元々産まれたときからすでにひがみっぽい性格で産まれてくるだけなのである。

逆に、天真爛漫とか、よく笑うとか、プラスの性格の子も元々その性格で産まれてくるだけなのである。

親の影響なんて、、風みたいなレベルでは。(虐待など強烈な人権侵害を除いて)

それを何もかも「親のマネ」「親の鏡」など、浅はかすぎる。新しい命は、そんな生易しいプレーンな入れ物ではない。
パンパンに破裂しそうなほどの個性を、持ってくる。
それが親にとって、受け入れやすいものでも受け入れにくいものでも。
そのことは、私は娘に教えてもらった。
教えてもらったから、初めて知った。

私は、ヒトの子育てを笑わない。
私は、ヒトに子育てを勧めない。 
妊娠も出産も、なにも勧めない。
実は私の母親である、私に子供を持つことの幸せを、浴びせるようにずっとずっと言い聞かせて育ててきたのは。私の母親にとって、子どもは無上の喜びであり、自分の存在意義であり、自慢であり、依存先であり、生きがいであり…。
私は、そういう母親にはならない。
それは、娘に教えてもらった。
たまたま、本当にたまたま、育てやすい子どもを2人も授かった私の母親と、私と。
私は、長いことかけて教え込まれていた「子ども信仰」から、解き放たれたのかもしれない。


私にとっては、育児子育ては大病に近い。
ステージや症状によって、同じレベルの自助グループメンバー同士で無ければ、なかなか話が合わないだろうし、似たような病気でも、転移の可能性、寛解か完治か、食事や排泄の可否など、理解が及ばないものもある。そしてそれはそれでよくて、誰も「わからない」ことで責められるべきではない。同じく、育児が楽だって辛かったって、どちらかが責められるべきでなく、どちらかの意見に合わせる必要もない。

また、大病と同じように
経験してきた者同士でなければ分からないであろう深い理解があり、それは経験したほうがいいとか、しないほうがいいとか論じるべき問題じゃない。それぞれで、いいのだ。
また、経験していない者が「見聞きした話」や「想像した」ことで病気を語ることは、経験してきた者にとっては不要なもの。
同じく、育児子育てもなんとなく身近なものに思えるが内容には個人それぞれ雲泥の差があるので安易に語ることはできないこと。
したほうがいいとか、しないほうがいいとか、そういう問題じゃないのだ。
どちらかの立場であるとしても、どちらもえらいわけでも何でもない。


育てにくかったから。思い知った。

娘がなにも教えてくれなかったら。
私も母親にならって「子供信者」になっていたかもしれない。
何もかも思い通りにならない、育てにくい娘でよかった。
これからも、思い通りにいかないことで、娘はずーっと気付かせ続けてくれるだろう。
わたしとあなたは、別々の人間なのだからということを。
ただのひとりの人間として、尊厳をもてているかということを、ずーっと、問い続けて知らしめてくれるだろう。

分かり合えないことを、誇れるような境地にありたい。

あなたのことを、わたしが作ったサクヒンのように勘違いさせないでいてくれる、その個性に改めて敬意を表する。

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