対話に向いてない

お風呂に入っていて、思わず自分が行なった恥ずかしいことを思い出した。

厳しい。

あるビジコンに友達を誘って参加してたくせに、その議論で友人に自分の意見を否定されて、「意味わかんね」と暴言を吐き、グループワークを微妙な空気にさせた経験がある。

私の提案がビジコンでは受けない(社会的に必要なことか的な話)との意見を言われて、相手の意見に納得できず暴言を吐いたが、その友人が言っていたことは正しかったし、相手の意見をつっぱねた私はやばい奴でしかなかった。その友人や、その界隈の友人とは関係がほぼ切れたし、悪口を言っていてくれた方がむしろ気が楽である。同じグループで、今も私とあってくれる人には感謝と、どう思われてんだろ、、でいっぱいある。


こんなことをふと思い出して思うのは、「私議論に向いてない」。
疲れる、好きじゃないではなく、向いてない。

これってこれから生活していく上で致命傷なんだけど、ほんとうに苦手。

まず、相手の言うことを素直に受け入れられない時点で、もう、、である。
フェミニズムとかエシカル とか対話が大事とかレポートで死ぬほど絞り出して書いてるのに、私自身相手の意見を受け止められないのだ。

私はプライドが高くて、自分が間違っていることを認められない。
よくない。本当によくない。
思えば間違っていることを認めるのではなく、いかに間違えないかという方向で努力して気がする。

私は、「間違えない」ことで自分を保っているのかもしれない。
間違えない私でいたい。
私の考えが、間違っていると言われることが怖いし、受入れらない。
自分の考え方が絶対的で強固なものでなくては自分が保てない。
だから、私が自分の考えを構築するときは、誰かのことばを拝借することでその正しさを担保する。誰かのことばを自分のなかに取り込んで、それを何かとくっつけて自分の考えとして出す。

「差別はいけない」
「差別する側はそもそも差別に気づいていない」とか

その人にとっては事実で、その考えに触れてみることについて私は肯定的に捉えているが、そこから動けないのは私のよくないところだ。

私はきっとその友人の意見を「この人に伝わらないし、私(の言っている「誰かが書いた本で書いてあった考え方」の方)が正しい。」という傲慢な気持ちで聞いていた。

そもそも、自分のことばで話す練習をしていないから、相手に自分の考えが伝わらない。相手と自分の間で、大事にしたいことが一致しない。

これらのことが本当にストレスなのだ。そもそも「いやでもそれはさ、、」という相手の意見を聞いているだけで辛い。

相手の考えを理解しようと質問して、そこはわかったって、、、!ということを長々と説明されるのもきつい。そして、その説明をぶった斬りそうになる自分を堪えて、説明を聞くともっとつらい。

的確な質問ができないのも辛いし、相手の意見を否定して、そこに相手が説明して、、、、というのもうっとうしい。

相手のキャッチボールがわずらわしいのだ。うざい。
かといって、サポートに回るのであればこんなMTGしなくたっていいと思ってしまう。どうしたらいいんだ、グループワークを回避することしか道がないのだろうか。


実は相手も同じ気持ちを持ってたりするんだろうか?
まあそんなこと微塵も思わなくてもいいし、思っててもわからないもだけれども、そんなことを考える。


きっと私は距離感を置いたほうがいい。

私の考えへの意見は私への意見じゃない。
相手の意見は、相手の全てじゃない。

まあ、言い方的に強い口調で言われると私は本当に反発心を覚えるし、イライラしてしまうのだが、私への攻撃じゃないと思ったほうがいいし、議論している相手を友人関係の延長線上に置くべきじゃない。

そのときは、彼らはディベートパートナーであり、スポーツマンシップ的なものに乗っ取って議論される瞬間がそこにはある。

そのときの私とわたしは距離を置くべきなのだろう。

議論は数をこなせば上手くなるのかもしれないし、ならないのかもしれない。私が相手のことを受け止められるほど柔らかくなれるかといわれると厳しい気もする。

まあそれでもよしとすることが出来る、正しくない私を認められるようになったら、きっとそこに、相手のことをちょっとは受け止められる可能性がある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?