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57 ベトちゃんとドクちゃん 赤塚さんへ

赤塚さん、私は秋田にいて、新幹線で川口へ向かっています。
赤塚さんは北海道?それとももう三重へ向かわれているのでしょうか?

赤塚さんは、旅の朝、どんなふうにお迎えでしょうか?

私は秋田の朝、いつもは手にすることが少ない読売新聞をホテルのラウンジで見ました。(小松にいて、なかなか手にしていなくて)そうしたら、ベトちゃんドクちゃんの大きな記事を見つけました。一面の大きな記事でした。
今は亡くなられたけれど、大好きな私にとってはとっても偉大な枡蔵先生という方のご縁で、ベトちゃんとドクちゃんとベトナムで会える機会をいただきました。イスラエルに最初に出かけた前の前の年だったかなと思います。仲間との旅で出かけたのです。
そして、日本からの支援物資などを送るお手伝いなどもさせていただいたりとご縁をいただいていました。

赤塚さん、かえすがえす思うのですが、最初のイスラエルの旅は私にとって、いろいろな意味で本当に大切な旅でした。その旅に枡蔵先生も参加くださいましたね。そして赤塚さんのログにも、一緒に出かけさせていただきました。
尊敬する枡蔵先生とこんなに何日も一緒にいられたというのは、とってもうれしいことで、それだけでも心が揺さぶられるような気持ちでした。なぜなら、当時の障がい児教育は、とっても子供たちに対して厳しいものがあったと思います。今は自立という時間は訓練という名前でした。そして、ともかく障がいを受け入れるというより、「少しでも健常児に近づける」という(健常児、障がい児という言葉はもう分けているような気持ちがしますね)ような考えがあったと思います。
そんな中、私と子供達との関係は多くの場合あまり受け入れてはいただけませんでした。でも、金沢大学の附属の養護学校で教鞭をとっておられた枡蔵先生や他の何人かの先生はすごく応援してくださって、本当にどんなにありがたかったことでしょう。とにかく石川の特別支援を切り開いていかれた先生のお一人でした。
他にも私のいろいろな考えを変えてくださったり、いろいろなことを考えさせてくださったあの旅。赤塚さんにどんなにお礼を言っても言い切れません。

枡蔵先生は、ずっとベトちゃんとドクちゃんやベトナムの障がい児教育を応援されていました。そして、ベトナムに何度も何度も行かれて、お仕事をやめられたあとは、ハノイで障がい児教育に取り組まれていて、たまたま京都に帰ってこられたときに、ホテルのお風呂で心臓か何かのご病気でしょうか? 突然亡くなられて本当に驚き衝撃を受けました。私は枡蔵先生がそれほど大好きでしたから。

今朝、新聞で拝見したのは、久しぶりのドクちゃん。結婚されてお子さんが産まれてということはわかっていたのですが、ご家族のお写真もありました。ドクちゃんは人工受精で双子のお子さんに恵まれました。こんなにお子さんが大きくなられたという記事をうれしく読みました。
私がもう20年近く前でしょうか? 枡蔵先生のご縁で、ベトちゃんとドクちゃんのお二人が入っていたツーズー病院に訪問させていただいたのです。そこは枯葉剤の影響と言われた体の一部がくっついているホルマリンの液体に入っている胎児がいっぱい置かれてありました。

ベトちゃんとドクちゃんが元気に産まれたことはとてもめずらしかったのです。お二人はその後分離手術を受けられました。その前にベトちゃんが病気のために脳炎にかかっていて、とても重篤な状態でした。このままだとドクちゃんの体も危ないということで分離手術にも踏み込んだとそのとき伺いました。ドクちゃんはとてもお元気だったので、いつか結婚をということもあって、赤ちゃんを授かるための機能は、ドクちゃんの方へという分離手術で、そのことをドクちゃんは申し訳なかったとおっしゃっていたけれど、いえ、ベトちゃんも、元気なドクちゃんの様子を喜んでおられると当時おしゃべりしました。ドクちゃんはバイクを運転してお仕事にも通っておられました。

それから何年も経って、ある日、私の地元でお友達と食事をするために、ある食堂に入ったら、知り合いの方がおられました。
なぜかわからないけれど、ベトナムのお話になって、「枯葉剤というものはなかった」「ベトちゃんドクちゃんは日本を騙して、お金をたくさんもらって…」というような私にとっては耳を疑うようなことをその方がおっしゃって、私は自分でも抑えられない感情になってしまって、
「あなたはどれくらいのことをご存知でそんな話をされるのですか?」
「病院にはたくさんのホルマリン漬けの胎児があります。知っておられますか?見ましたか?」
「その影響で今もドクちゃんはいろいろな病気にもなっておられます。どれほどのことをご存知ですか?」
「ドクちゃんは日本にいつも感謝して、お子さんのお名前も日本名をつけられています」

私はこの戦争が誰が悪かったかとか、お薬がどうとか、たぶんそのときはそんなことを考えていたのではないと思います。ベトちゃんとドクちゃんと、そして、大好きな枡蔵先生を汚されたような思いがしたのです。知らないのにまるで見てきたかのように間違いのないことだと言っておられるその方に、腹が立ったのだと思います。

私の口調はずいぶんと激しかったのだと思います。一緒にいた友達が「まあまあ」といさめてくださったことにさえ腹を立てた自分がいました。
止められない自分。我を忘れるような自分がいるのです。

でも、落ち着いて考えれば、あの時に、その方の意見に何も言わなければ、私は枡蔵先生やベトちゃんとドクちゃんを裏切ったような気持ちもするのです。だから、それで良かったのかなと思ったりもします。

それから、そうだその旅で、「イスラエルする」という言葉が生まれましたね。
どうしても譲れないことがあったときは、イスラエルの名前の由来にもなっているように、神(エル)にさえ、戦いを挑む(イスラする)こともあるし、それも大事なことだと、そんなことを赤塚さんとお話ししあったことを思い出します。

そんなことを思い出す朝でした。でもよかった。秋田に来て、だからこそこの新聞にも会えました。主催してくださった大好きなお友達にもベトちゃんドクちゃんのお話ができました。
足らない自分がいて、それもまたそれでいいのかなと受け止めようとする自分に新幹線のこまちからの風景は優しいです。

赤塚さん、京都の上映会まであと一ヶ月。上映会にしても講演会にしても本当にみなさんがたくさんの方にどんな思いでお声掛けしてくださっているかと思うと胸が熱くなります。
秋田も満員御礼で本も完売でした。

京都も頑張ります。そしてウクレレ。みんなで頑張る!それがうれしいです。

またね      かつこ

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