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「春を感じたまだ外は寒い」2022年2月21日の日記

髪を切った。私は散髪が嫌いなので、極限まで髪を伸ばしてから切りに行く。今は大学にも行っていないので、相当伸びていたので、流石に....と思って切りに行った。徒歩旅の時に邪魔になっても仕方がないしね。

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道を歩いていると、メジロをみつけた。体が鮮やかな緑色をしていて、目の周りだけが白い。緑の中にいると、白い丸だけが浮いているように見える。メジロには春のイメージがあるので、自分の中の気温が少し上がったような気がした。

散髪屋に着いた。
まずは霧吹きのようなもので軽く髪を湿らされる。それから、紐を解くみたいに丁寧な所作で髪を櫛でといていく。しばらくして、髪の毛が切り終わった。私は髪に対するこだわりはほとんどないので、どういう仕上がりになっていようと大丈夫です、ありがとうございますと言う。

こだわりを持って良いことなんてあるのだろうかと思ってしまう。こだわりがあることはそれだけで弱点たりうるのではないか。同じように、ルーティーンなども私には一切ない。ルーティーンがあると落ち着くと言う人もいるが、そのルーティーンがうまくいかなかった時や、忘れていた時の心のぐらつきの方が大きいような気がして、ルーティーンを意識的に作らないようにしている。

「先輩がうざい後輩の話」というアニメを4話くらいまで見た。面白い。先輩がうざいと言うから、どんなことをしてくるんだろうと思っていたが、客観的に見ても全然うざくないな。なかなかいい感じだ。桜井さんが可愛いので、私は桜井さんと風間の関係に注目してる。あの二人の感じいいよね〜。


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適当に撮ったやつ。トースターの中にナゲットが入っている。兄がマクドナルドに行って買ってきたらしい。晩御飯に食べた。

今日は他に書くこともないので、昔書いたやつを載せておく。メモの消費である。途中だと思うが、何を書きたかったのかをもう忘れてしまった。

例えば、先生が教卓に立って怒っている時、視界がぼんやりとしたことはないだろうか。怒りの矛先が自分に向かないように、感情を押し殺して、ただ前を向いている時、目の焦点はどこにも合っていない。私ではない誰かが怒られていて、ただ時が過ぎるのを待っているその時間を、私は今でも思い出すことがある。

私が中学生の国語の授業で、私ではない誰かが怒られていた時があった。授業中にも関わらず何人かの生徒が喋っているからだった。その先生は普段は怒らない温厚な人だったから、教科書を床に叩きつけて怒鳴っている姿に流石に教室内も静まり返った。
あの時、果たしてあの先生は本気で怒っていたのだろうかと思う。私には演技で、生徒を静かにさせるために怒りという感情を表層に出したようには見えなかった。先生はあの場で確かに悲しみ、苦しみ、そして怒りを抱いたのだろう。そしてそれが抑えきれなかった。だとしたら、良い先生だったのだろうと思う。やる気のない先生なら、成績を下げるにとどめるだろう。その方がエネルギー効率もいい。けれど、怒る先生ばかりが嫌われていて、一見優しいように見えて突き放している先生ばかりが人気者だった。私にはどうも、先生たちが生徒に良いように利用されているようにしか思えなかった。生徒側が、ある先生に人気であるように見せかけて、自分の思い通りに動かそうとしているように思えた。そして、先生側もそれを受け入れて楽しんでいるように思えた。そういう姿は、私にとってひどく残酷に見えた。

あの頃は自分の意思でどうにかできる物事は数え切れるくらいしかなくて、ほとんどのことが自分の意思の外にあった。

体育会や音楽会が嫌いだった。
音楽会の時、校歌を歌う練習があった。
学年全体で校歌を歌うのだが、その練習中に声が小さいということで野球部の顧問をやっていた教師が怒り始めたことがあった。
「そんな小さい声で良いと思っているのか」というようなことを怒りながら一人の生徒に聞いた。「思ってないです」とその生徒は言った。「じゃあやれよ」とその教師は言った。一連のやりとりは決められたみたいに生徒側には選択肢が与えられていない。聞いていた私でさえ同じように答えただろう。そう答える方が穏便に、早く済むからだ。

その教師は英語を担当していた。
一度、授業の中で、その教師がくじを引いて当てられた生徒が黒板の前で言われたモノマネをしなければならないというものがあった。
30人程度いたクラスの中で運悪く私がくじを引かれてしまい、クラスの前でドラゴンボールのモノマネをしなければならなくなった。その時、私は頭が真っ白になってしまって、どのような動きをすれば良いのかが全く分からなくなってしまった。ドラゴンボールにどのような技があったのか、どうすれば良いのかが分からず、顔を赤くしたままオロオロとしていた。そんな私を見て、恥ずかしがっていると思ったのか、「なんでもいいから早くしてくれ」と少し苛立った様子でせかしてきた。その教師は、私が男であるにも関わらず恥ずかしがっているのに対して苛立っているように思えた。
結局ALTの先生がこの動きをすれば伝わるよと耳打ちをしてくれて、その場は多少盛り上がって終わった。ALTの先生がいなかったら、きっと私はそのまま何もできないまま立ち尽くすだけだっただろう。

その教師はいじめというものを徹底的に許さない姿勢を見せていた。
全学年が集まる場所でいじめに近いことが発覚した場合には「徹底的に叩き潰す」と強い口調で言っていた。少なくとも、生徒の統率力という点で私はその教師を評価していたし、そういう発言については好感を持っていた。
しかし、結果的に言うといじめは学校内にあったし、それが最悪の形で露呈してしまった。私はひどく落ち込んだが、きっと私はその教師を高く買いすぎていたのだと思う。教師というものを、大人というものを高く評価しすぎていたのだと思う。だから、別に私はその教師に対して責めるようなつもりはない。ただ、私が落ち込み、大人に対する期待を完全に無くしてしまった(小学生の時から周りよりも大人に対して期待する気持ちは少なかったが)ということだけは事実である。

これらのことは、今思い返して嫌になっているだけかもしれない。当時は色々なことを諦めて、自分の意思の外側にあるものに対して受け流す姿勢を見せていた。だからそこそこ楽しくやっていたのかもしれない。ただ一つ言えることは、今思い返して嫌な気持ちになるということは、決して良い思い出では無いということだ。

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