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「Xパワーの精神」2022年5月25日の日記

今日のゼミの授業、めちゃくちゃ面白かった。濃い時間だったな。
今日からゼミ生による発表が行われて、今日は吉屋信子の「生死」という作品についての発表だった。
戦前と戦時中、そして戦後の主人公の精神の動きが描かれていて、作品も好きだったし、発表も良かった。その後、ゼミ生による質疑応答などもあったが、その時間も濃くて有意義な時間になったと思っている。
文学は基本的には1人で嗜むものであるが、だからこそ誰かと読みを深めていくという体験も同じくらい大事だろう。そういった面でゼミという環境はなかなか良いのかもしれない。好きじゃない作品とか、読みにくい作品も出てくるので大変ではあるけれど、勉強にはなる。

「生死」というタイトルにもあるように、今回は死とか、精神について考えることが多かった。


生きている意味って何だ?というチープでどうでもいいと思っていた問題がまた形を変えて現れたような気がしている。
先生は名前を残すことや言葉を残すことだけが精神を残すことに繋がるわけではないというような話をして、それはある種希望になりうるが、私を納得するに足りうる言葉ではなかった。

子どもが希望になりうるのかもしれないみたいなことも考えた。
子どもを作れば、自分が存在していたという証を作ることはできる。
私が存在しているということは、私を産んだ親がいて、その親を産んだ人がいて.....という繰り返しが遥か昔からあったということである。仮に私が子どもを作らないという決断をしたら、これまでの繋がりが一気に途絶えてしまうということになる。そう考えると恐ろしい気がしてくる。これまでの繋がりの結果私が存在しているということは当たり前だけど、改めて凄いことだなと思った。


死んだら何も残らない、という事実は恐ろしい事実としてある中で、これまでの人間の様々な原動力にもなっただろう。
「死んだら何も残らない」を否定するために霊魂という概念が生まれてきた。
霊魂不滅説というのは戦時中によく流行った(国が押し付けた)らしいが、それもよく分かる。死んだらどうなるのか、というのは平穏に生きている我々ですら考える問題なのに、それこそ生死を分けるような戦いで生きている人々にとって、一番身近な問題だろう。そして、その死への恐怖に対する希望として、死んだら霊魂になるという考えが広まった。

死んだらどうなってしまうんだろうね。
私が死んだあとのことを私が知ることはないが(私は霊魂なんてものを信じてはいないので)、想像することはできる。できる、というか、嫌でも想像してしまう。言葉というものが生まれてから、死後のことを考えなかった人はおそらくいないだろう。


結論は出なくとも、もう少し死について考えてみても良いのかもしれない。

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財布に落ち葉が挟まっていた。ファンタジーだ。

昨日、スプラトゥーン2のガチアサリでXにいった。
今月から本気でやり始めて、ちゃんと達成できたな。これまでちゃんとアサリをやってこなかったので、どうなるかな、と思ったのだが、意外にスイスイいけた感じ。他のルールの方が時間かかったかもしれないな。
これで全ルールXに到達したので、悔いなくスプラトゥーン3に移行できる。9月楽しみ。
全ルールでXにいった人ってどのくらいいるんだろうな。上位何%くらいなんだろ。YouTubeの実況者見てると、当たり前のようにXで2800とかいってるけど、別にあれが普通じゃないからな。全然上がれない人もいると思うんだけど。
ちなみに、私の兄も今月からアサリに本気で取り組んでいて、まだS +5くらいらしい。
Xにいったことを兄に伝えると、悔しがっていた。ふふん。

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