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「切り株の見える景色」2022年4月26日の日記

朝から憂鬱だった。

夢を見た。憂鬱な夢だった。夢の記憶は起床と同時に私の頭から消えてしまって、憂鬱さだけが残った。母親の怒る声で目を覚ました。姉が部屋でYouTubeを見ている。瞼が重い。イライラが募る。


人生においてのどうでもよさ、みたいなものが自分の根底にある。その価値観は時に私を助けてくれるけれど、時には私を苦しめることもある。
昔から、将来について考えるのが人よりも苦痛だった。そりゃそうだ。将来どうでもいいと思っている人間にとって、将来について考えて、それを他人に言うことは苦痛以外の何者でもない。嘘の将来を考えて、そう見せなければならないのは少なからずストレスだろう。

将来について誰かと話す時、「意外とみんな将来について考えているんだな」と毎回思う。実際は途方もない夢だったり、叶いそうにないなと思う夢であったりを言っている人も多くいるのだが、それを恥ずかしげもなく人に言えるということがすごいと思う。そこには尊敬ももちろんあるけれど、羞恥みたいな感情も同じくらいある。


小学生の時、卒業文集で文章を書く機会があった。好きな文章を書いていいのだが、基本的にはみんな将来の夢を書いていたと思う。
野球選手になりたいだとか、サッカー選手になりたいだとか、医者になりたいだとか、そういう煌びやかな夢ばかりが卒業文集に載っていた。
私は小学校の思い出という普通のタイトルに、普通の文章を書いた。下手に嘘の将来の夢なんて書いて、将来の自分が見て傷つくことを避けたのだ。私は昔からそういう癖があって、将来のことをどうでもいいと考えながら、将来傷つかないようにはしていて変に策略的だ。

今日はどうにも気分が落ち込み気味だったので、大学を休んでどこかに行くことにした。
休みたい時に休めるのが大学生の特権だと思う。まあ、全部自分に返ってくるんだけど、大学生はその反動みたいなものが極端に少ない気がする。
火曜日は三コマもあったのだが、全部行かずにどこか違うところに出かける。
あいにく午後から雨が降るみたいだったが、家にはいたくないし、人の多いところも嫌だったので、山に登ることにした。山といっても、歩いて15分くらいで登れる小さい山だ。

二度寝して、昼を家で食べてから家を出る。
朝早くに弁当を作ってくれていた母親には申し訳ないが、どうにもならない。止められないのだ。

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「特別になりたい」と麗奈は言った。

「普通が嫌」な時は誰にだってあると思う。普段は普通でいたいと思って、普通の人の皮を被っていても、ふいに、「特別になりたい」という気持ちが芽生える瞬間がある。私は、「特別になりたい」なんてことを言えるほど自信があるわけじゃないけれど、「普通じゃ嫌だ」くらいに思うことはある。
普通を回避するために一番簡単なのが、1人になることだと思う。1人になって、孤独を感じていれば少しの間、自分は特別なのだと思い込むことができる。普通の人が大学に行っている中、私は山で本を読んでいる。雨が降っている中、私は外にいる。そうやって少しの間自分を騙していれば、また日常をどうにかやり過ごすことができるだろう。

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それにしても風が強い。雨はそんなに降っていないが、空き缶くらいなら簡単に飛ばせそうな強い風が吹いている。上着を持ってきていて正解だった。

3時間くらい山にいて、流石に寒くなってきたので帰宅。少し遠回りをして、散歩しながら帰った。

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今日は父親の誕生日らしいので、母親がスーパーでケーキを買ってきた。私から見たら母親は父親を嫌っているように思えるのだが、そうでもないのか?分からん。あからさまに嫌っているわけではないんだけど、直接会話するのを避けている時もあるし、明らかに父親を拒否している時もある。かと思えば休日に両親と子供何人かで出かける時もあるし、晩御飯の時に家族で話すことも普通にある。
子供がいないと成り立たない関係なんだろうなと思う。確実に2人だけになったら両親の距離は離れていくんだろうな。母方の祖父母もそんな感じがする。子供がうまく仲を取り持っている感じ。
やれやれ。

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