昔書いて眠っていた日記の欠片①

メモ帳にあった文章をまとめて投稿しておく。あんまり書いた記憶もないので、まとまっていない部分もあると思う。後編もあるので良ければ。


・成功者たちはどこか異質である。そして、異質であるが故に成功している面もあると私は思う。普通の人が気にするようなことを気にしないし、恐れて足踏みしてしまうことを恐れずに突き進むことができる。そういった異質な人がいる中で、普通の人間がその人たちの成功を参考にして人生を生きようとしても無意味であると私は思う。無意味であり、不可能であると思う。しかし、そういった才能のある人間ばかりが表層に出てきて、賞賛される。結果を残しているのだからそのことに文句はないのだが、そういった人々の言葉は大抵の場合自信満々で「簡単」である。悩んで、苦しんで、うだうだとしているような人間はメディア映えしない。だから、華やかで「簡単」な人間だけが印象に残る。そして、多くの人の目に映り、影響を与える。平凡、無気力、無難な人間が大半であるにも関わらず、表舞台に立つ人間の多くは非凡なものを持っている。
中には、その人をロールモデルとして生きていこうとする人もいるかもしれない。けれど、そんなのは結局無理なのだと思う。

・私は彼の深く切りすぎた爪を見て、「めっちゃ深爪やん(笑)、深爪ってあんまり良くないらしいで」と言った。
彼の爪には白い爪の部分がほとんどなく、ピンクの肉の部分が見えかけていた。私にはそれがとても痛々しく思えたから、やめて欲しいという意図も込めて彼に言ったつもりだった。彼は、自分の爪をゆっくりと見て、「そうやな、また切らなあかんわ」と言った。
私は彼がボケていると思って、「なんでや(笑)」と軽くツッコミをいれながら笑ったのだが、彼は少し笑顔を浮かべるだけだった。
私が不安そうな顔をすると、彼は自分の手首を見ながら、いじめのストレスで寝ている間に自分の手首を引っ掻いてズタズタにしてしまうことが度々あったという話を私にした。
彼がこれまでいじめと密接に生きてきたことはこれまでに知っていたが、それが深爪と関連しているのかを私は知らなかった。
彼の手首をよく見てみると、うっすらと手首に引っ掻き傷が浮かんでいた。
私はそれを見て、涙が出そうになった。
彼の手首の傷はもう古いもので、最近は引っ掻くことも無くなったらしい。最近は深爪をする必要はないのだけれど、癖になってしまっていると彼は言った。

・最近、「この人のこの作品良かったよ」みたいな感じでオススメする時に、絶対に知っているであろう作品を言うというノリにハマっている。
例えば、私は新海誠作品の中でも「言の葉の庭」が一番好きなんだけど、「君の名はって知ってる?あれおすすめだよ」と言ってみたり、一番有名なやつを言ってる。

・昼はうどんを食べた。
冷蔵庫を見れば大体食べる物はあるので、休日はその中から選んだり、気が向けばちょちょいのちょいで料理して食べることが多い。
一パック何十円とかのやっすいうどんがあったので、適当にネギとか肉とかをのせて食べる。
実は麺類の中でうどんはそんなに順位が高くなくて、むしろ低い方だ。というか、うどんって飲み込むタイミング分からなくない?
噛んでいくたびに小さいうどんになっていって、いつ飲み込めばいいか分からなくなるんだよな。
ご飯だと粒が潰れていった時に自然に飲み込めるし、ラーメンや素麺などの細い麺も自然と飲み込んでいるのだが、うどんはふとした瞬間に飲み込むタイミングを意識してしまう時があって、分からなくなる。
まあ、たまに思う程度でそこまで戸惑うこともないんだけど。

・挟まる憂鬱と潜む退屈。
日々は目まぐるしく動いている。
不変ではないものが、次々と変化していき、自分もろとも形を変えていく中で、自分が変わっているという自覚もないまま変化していく。周囲の影響を少しずつ受けて、それは、ゆっくりと変化していく。
どうでもいいけど、「目まぐるしい」という字の「目まぐるしい」感はすごいな。
目まぐるしい。目まで苦しい。

・当然のことなんだけど、今自分が生きている「朝」という時間が、地球の反対側にいる人にとっては「夜」だということにひどく驚いた覚えがある。
地球が自転しているから、朝と夜が反対になるのはなんとなく理解できたのだが、朝の6時が反対側の人間にとって夜の6時であるということがすごく意外だった。
あと、オーストラリアでは夏にクリスマスがあるというのはよく聞く話だけど、私は未だに納得できていない。
夏にサンタクロースが来るという光景はなかなか想像できない。
今私が生きている時間が、他の人にとっては別の時間であることにひどく驚いた覚えがある。

・歩行者は皆マスクを付けていて、肌の露出している部分は目だけであった。だから、見られていると感じたのかもしれない。
ふいに、左耳の付け根に痒みを感じた。左手はスマートフォンでに繋がっていたから、仕方なく右手で痒みを消すために掻いた。私はその時頭の上から手を回して掻いていて、「グッバイ宣言」のポーズをしているみたいだと思った。

・昔高評価を押したことを忘れて、もう一度再生した動画を、またいいなと思う。高評価を押そうとしたらすでに昔の自分の手によって押されていて、つい笑ってしまう。変わっていない自分の感性を再認識して、安心する。大丈夫、何も変わっちゃあいない。変化を恐れるということは私がすでに精神的に大人になったからだろうか。それとも、キミたちは変化し続けるうちは成長できるみたいなことを言うのだろうか。

・家族で王将に行った。結構混んでいて、待ち時間があったので、店の前で「海老チリ」の「チリ」の部分を他の国名にあてはめて何が一番しっくりくるかを話し合った。
やはり、二文字か三文字の国名がしっくりくることが多かった。「海老パラオ」「海老スペイン」「海老フランス」などが候補として上がる中で、弟の出した「海老デンマーク」は異彩を放っており、国名の長さと語感の良さを兼ね備えており、優勝は「海老デンマーク」になった。

・夜、兄と姉で兄が作ったゲームをした。
日本の歴史上の出来事を年代順に並び替えるみたいなゲームで、私と兄はそこそこできたが、姉の日本史知らなさが尋常じゃないくらいだった。
ちょっと引いちゃうくらい覚えてなくて、おいおい.....ってなった。
ただ、歴史の知識がたまたま無いだけであって、私自身、常識力は無いし、知識も偏っているので、笑うに笑えなかった。
「うわ、こうなる可能性あるのか.....」となってしまった。勉強しよ。

・大学のとあるスペースでご飯を食べることが多いのだけれど、そこには「毎回同じような時間に通りがかり、マスク無しで喋っている人を注意する警備員」がいる。
今でもご飯を食べながら友人と話すのもあまりできていない状況だが、私は特段おしゃべりというわけでもないので、これは別に良い。
ただ、警備員の人の注意が毎回同じところが気になる。
毎回同じような口調で、同じようなトーンで注意する姿を見ると、機械的だなと思うし、注意するということにはそれなりのエネルギーがいると思うし、それを毎日のようにやっていたら疲れるだろうし、怒りを抱いてもいいと思うのだが、それが全くない。
正直、少し怖い。機械的に動く人間の姿は少し怖く見えるな。
人間的に動く機械も怖く見えるけど、ああいうのはまだ人間的な動きが入っている機械だから怖いだけなのだ。

・たまに、小さい子供を連れた親子とかを見ると、すごく不思議な気持ちになる。寂しいような、羨ましいような、そんな感じ。
恋愛して、恋人をつくって、結婚して、子供つくって、わたわたしながら子供を育てて、休日には子供と一緒に遊んで、子供の試合とかを見に行ったりするような幸せを私は経験しないまま死んでいくんだろうな。
なんか、そういう幸せを私は諦めてしまった感があるので。それでいうと、小学六年生の時点で「そういうの絶対無理やん」みたいな思いがあったような気がする。
いや!まだいけるけども!まだ20歳なんだけども!
家族を作ってしまうと一生家族を作った自分でいないといけない状態になるので、窮屈だなという風にも考えている。
多分、こういう価値観もいずれ変わってしまって、将来の自分は意外にもあっさりと結婚しているのかもしれない。それはそれでいいけれど、こう思っていた時期もあったよね、くらいの感覚で文章として残しておこうと思う。

・私は今、大学の講義が終わり、家に帰るためにバスに乗っている。
なぜ文章を書き始めたのかと言うと、暇だったからだ。持ってきた本を読み終えてしまい、手持ち無沙汰であったから、暇潰しにとりあえず文章を書いているということである。暇であればスマートフォンを触って何かすれば良いだろうという意見もあるだろうが、今の私にはそうはいかない。この文章はスマートフォンで書いているが、私にはスマートフォンこそあれど、「ギガ」というものがない。
私には圧倒的にギガが不足しているため、ギガを使う暇つぶしは今の私には禁じられている。
スマートフォンを買い換えるのが面倒で、ショップに行くのも面倒だったため、全てオンラインで済ませてしまったのだが、私は人よりも幾分かケチであるため、できるだけ価格の安いものにしようとした。そして、気がついたら月3GB、本体容量64GB、電話無制限プラン無しという、現代の若者とは思えないほどのプランを選択してしまっていた。家族や友人にこの話をするたびに驚かれるし、それで生きていけるんやとも言われてしまうが、基本的に私は出先でスマートフォンを使うことはない。
通学時間にはこうして文章を書いているか、本を読むか、あらかじめダウンロードしていた映画やアニメを見るかなどして時間を潰している。ではなぜ今ギガが無いのかというと、家のwi-fiの調子が悪く、家でスマートフォンを使っていたらいつの間にかギガが減っていたという不測の事態があったからである。

・「文章を書く」というのはなんとコストパフォーマンスが良い趣味か。いつだって、どこだって書ける。そして、書くのは無料であるし、書いたものはほとんど一生残るものになる。
私はこれまでたくさんの文章を書いてきたと思う。
日記は小学六年生の時から続けてもうノート20冊くらいにまで達しているし、このnoteにも幾分かの文章を書いている。メモ帳にもまだあげていない文章がいくつかあって、あげる気もない文章も大量に眠っている。もう消してしまったと思うけれど、noteの他にもブログとかもやっていて、人よりも文章に触れる機会は多かったと思う。
昔書いた文章を今読み返してみると、拙いなと感じるし、それを誰かに見られていたと考えると恥ずかしい気持ちになるが、とりあえず消さないで残しておこうと思う。拙いと思うことはそれだけ成長しているということであるし、今の自分ならこう書くな、というのを考えるのも楽しいだろう。
そして、今こうして書いている文章も数年後には拙く、恥ずかしいものになるだろう。
それも踏まえて、私はこれからも書いていこうと思う。
こうして、暇つぶしに文章をダラダラと書いているだけでもう家の近くのバス停まで着いた。有意義な時間の使い方ができただろう。では、私は家に帰って寝ることにする。昼寝である。

・全部オモロいな、で済ませることができたらすごく豊かな生活ができるんだろうなと思う。
例えば、電車で隣に座った人が居眠りをしていて、自分に強くもたれかかってきた時、
「このまま押し潰されたらオモロいな。」とか、「コイツ寝てる間も人に迷惑かけてるやん笑。じゃあ起きてる間どうなんねん笑。」と思えたら、どれだけいいだろうか。
実際は、「なんで知らん奴に肩貸して心地良い眠りを手伝わなあかんねん」と思って、舌打ちをしそうになる。
例えば、歩きスマホをしている人に肩をぶつけられた時、とろサーモンの漫才を思い出して「ふふ」と笑うことができたらどれだけいいだろうか。
実際は、そのスマホを落として壊れたら良かったのにと思う。
精神的に余裕がある時は一人でつっこんだりして楽しむことができるのだが、毎回そんな風にうまくはいかない。

私は愚痴を言うのも聞くのも嫌いなのだが、
それでも人にイライラすることはあるわけで、そういう時はできるだけ愚痴を笑いに変換して話すようにしている。怒りに対して共感してもらってイライラを解消するんじゃなくて、怒りをこっちで笑いに変換して話して、笑ってもらうことで解消するようにしているのだが、なかなかうまく笑いに変換できないこともあって、そのたびにその怒りは自然と消えていくまで待つほかない。
うまく笑いに変換することができたら、どれだけ良いのだろうと思う。そういう点で、私は私にお笑いの能力があればいいのにって思う。
話は少し変わって、私や私の弟と兄はお笑いに多少詳しくて、3人ともよくお笑い番組やYouTubeでお笑い芸人を見る機会が多く、物事を笑いに変換する能力がそこそこあると思っているのだけれど、私の母親や姉はあまりそういう能力がなく、こっちが冗談で言ったことを信じてしまうことがある。
その度に私は少しだけうんざりして、相手に合わせるためにスイッチを切り替える必要がある。
特に母親はその冗談というか、私たちが何気なく会話しているところを本気にして軽く怒ったり正論を言ったりしてくるのだけれど、私たちが冗談で言っていることが伝わらないとスベったみたいになるし、実際にスベっている。その度にこれは冗談やで、とか、嘘やでーとかを言って説明するのだが、まあ、面白くはない。
本当に面白い人なら、誰にでも分かるように笑わせることができるのかもしれないけれど、あいにく私にはそういう能力はない。
本質的に、面白くない人間なのだ。
だから、全部オモロいで済ませることができたら幸せなんだろうなって思う。
しんどいことも、辛いことも、不幸なことも、全部「オモロいな」で済ませることができたらどれだけいいだろうかと思う。
そういう人を羨ましいと思う。

・弟が禁煙アプリ入れて一年経ったということで、もしタバコ吸ってたら何円かかっていたかが分かるらしい。弟はタバコを吸わない(そもそも未成年だ)のだが、入れていたらしく、もし吸っていたら一年で100万円もかかっていたらしい。
結構するな、と盛り上がって、一日何本吸う計算なのかと聞いてみたら、一日50本吸う計算になってた。笑
タバコだけ吸う日あるやん。タバコだけの日あるやん、みたいにツッコんだ。

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