おわりに。

18日間に渡る旅が終わった。
振り返ってみればあっという間だった。毎日が一瞬で、必死に歩いていたらいつの間にか私は東京に立っていて、旅が終わっていた。
結局、寄り道なども含めると総歩行距離は約537キロになり、1日平均で30キロくらい歩いたことになる。

今、私は夜行バスに乗っていて、少しずつ私の体は私の住んでいる土地へと戻っている。
達成感と、燃え尽きたような虚脱感があって、不思議な気分だ。


旅をしていて感じたのは、どれだけ人類の科学が発展しても、人間は自然の一部に生きているんだなということ。
港の近くに街はできるし、港ができるのは、港を作りやすい地形だからこそ。港を崖近くには作らないし、そこには自然を利用して生きてきた人間の過去が積み重なっている。
それって、なんだか美しいなと思った。
そこに自然が生きているのは、人間が手を出せなかった理由があるからで、今も残っている山には、人間が手を出せない何らかの理由がある。
山が切り崩され、森が破壊される光景を私はこれまで飽きるほど見てきた。
昔遊んでいた山は禿げ、そこにショベルカーが張り付いている景色を私はよく知っている。
徐々に山が切り崩され、自然は文明へと変化していくけれど、それでも残っている自然には何らかの理由があって、美しいなと思う。
美しいという安易な言葉に逃げないで、ちゃんと説明したいけれど、なかなかうまく言葉にできないから、許して欲しい。
文明と自然はよく対比的に描かれるけれど、自然と文明が入り混じっている光景はすごく好きだし、やはり美しいと思う。
人の手が入っていない無人島みたいな自然も素敵だけれど、自然の中に人の動きがあって、その積み重なっている様子が私は好きなんだと思う。

旅の間、風景を意識的に見ることにした。風景を意識的に見ると、風景に感動することが増えた。何気ない風景の美しさを感じとることが増えた。
何気なく歩いている道の中にも、綺麗だと思える何かがあって、意識して見てみると、急に姿を現したように、美しい風景として鮮明に見える瞬間がある。
これから家に帰って、いつもと同じ道を通って、いつもと同じ日常を過ごすだろう。そこには、いつもの風景がある。
そのいつもの風景に対し、私は何か思わずにはいられないだろう。こんなところにこんな風景があったのか、と驚いて、感動するのかもしれない。

こんなに長い間旅をしたのは生まれて初めてだった。たかが18日間歩き続けて旅をするだけで、さまざまなことが違って見えた。
旅をすることで、たくさんの非日常的な経験を味わうことができた。けれど、それも長くは続かない。きっと長く旅を続けていれば、それが日常的なものになって、しだいにそれも飽きてしまうのだろう。たとえその瞬間、非日常的な興奮を覚えたとしても、それを続ければきっとそれは日常的なものへと変わっていってしまうのだろう。18日間旅をしていて、非日常が少しずつ日常になっていく様子を私は身をもって、少しずつ実感していった。毎日歩き続ける非日常が、いつの間にか日常へと変化していくのは、私にとって少しだけ苦痛だった。

旅をしていくことで、私は自分の中にある世界がどんどんと広がっていくのを感じた。その瞬間は非常に刺激的で、楽しいものであった。けれど、頭の片隅には不安に感じているもう一人の自分がひっそりと私を見つめていた。知らなかったものを知って、世界が広がって、その広がった世界に慣れてしまった時、私はまた同じような閉塞感を覚えてしまうのではないか。結局同じことの繰り返しではないのか。そう思う自分が少しだけ存在していて、そして、きっとそれは真実なのだと思う。そして、私はその閉塞感から逃れるためにきっとまた旅をする。今度は、もっと遠くに。
もっともっと遠くにあるものを知ってしまった時、私は何を思うだろうか。あの頃は知るよしもなかったことを今の自分は知っている。その中には、当然悲しいことや苦しいことだって含まれる。
けれど、それをふまえて生きていくしかない。普通に生活して、窮屈になって、その窮屈さから脱するように旅をして、自分の中の世界が広がる。その繰り返しで生きていくしかないのだ。それが、私にはとても辛いことのように思える瞬間があって、その渦の中からどうにか脱することはできないものかと度々考える。
それでも、きっと解決方法はないから、私たちは旅に出るしかないのだと思う。

今、頭の中には新しい旅の形があって、私はそのことばかり考えている。それは、おそらく今の私には到底できそうにもないことだ。けれど、もしかしたら未来の自分はそれを実行しているのかもしれない。過去の自分が考えていたことを、今の自分はやっている。できている。だからきっと、今考えていることを未来の自分はできるようになっているだろう。私はそれが楽しみだと思う。

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