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山に登るということ

 僕は山登りが好きだ。と言ってもここ数年ほとんど登っていない。実際に山へ行くと自分の中の満足度は高いに違いないが、登山後の筋肉痛を含めた「後遺症」にびびって行けずにいる。
 それでも過去に登っていた経験から、登山の何が好きなのか?は書けると思う。人によっては苦行でしかない山登りの魅力を、写真や動画ではなく文章で伝えられるかという苦行を自らに課してみようと思う。
 山と一言にいっても、標高がさほど高くない山でもキツかったり、標高が高くても意外と楽に登れる山など色々ある。初めて行く山の場合は、景色も目新しくのんびり観察しながら登れば気分的にもペース的にも緩やかになる為、楽に感じやすい。ただ、僕が一番登る事が多かったのは、登山部のトレーニングコースにもなっている丹沢山だった。標高はそれ程高くないがいざ登ってみると思いのほかキツい。
 なぜ丹沢山かというと、
①家からアクセスしやすい
②ブナ林がある
③連なる山々の山頂や縦走路が空いていてかつ魅力的
 初めの頃は特に②のブナ林を目当てに登っていた。自然が好きでブナ林の美しさに囚われて、1番近場でブナを見れるのが丹沢山だった。風景写真を趣味にしていたので、カメラ本体にレンズ数本と三脚を担いで登っていた。
 登山口からの登り始めはただひたすらに苦しいだけで、引き返して部屋でのんびりテレビでも見ながら転がっていようか、という衝動と戦いながら登る。この段階では楽しさのカケラも伝わりませんね。
 雑念が入らぬように自分は石だ、感情などないと唱えながら修行僧のように登ります。呼吸と歩みのリズムを整え、ただ一歩一歩進む。コマ切れに視界に入ってくる風景、そのショットショットが流れてゆく。別の登山者とすれ違えば挨拶する。
 1時間から2時間はこの状態で登りますが、標高が上がってくると日常の景色ではあまり見ない風景が現れはじめます。視界が開けて遠くを見渡せたり、見知らぬ植物に目が止まったり。無感情に登っていたのが徐々に心が開かれていきます。意識的に感情を動かすわけではなく、自然に開かれてゆく感じ。
 日常では自分の社会的立場だったり家庭での役割などを担っています。でも(一人で)山に登り始めると一旦社会的衣を脱ぎ捨てて、一つの身体として山へ入ります。自然の中では、たとえ会社で部長職だったとしてもその役職は役に立ちません。熊に出くわして部長の名刺を差し出す人はいませんね。
 この一旦身体ひとつになって、無心に登って行くにつれて徐々に開かれて行く感覚、というのが好きです。
風に吹かれる気持ちよさ
足を踏み外せば死ぬかもしれないという恐怖感
あそこを攻めてみようという冒険心
疲れてちょっと腰掛けて食べるおむすびの美味しさ
朝夕に現れる街とは違う色彩の美しさ
風雨に晒されて登山道を急いで駆け抜ける時の高揚感または不安
踏みしめる土の感覚や木々の香り
色んな感情が自然と湧いてきます。

 こういった感情が生まれるには登山道に入り、一歩一歩登って行き、自然と心が開かれてゆくという行程が大事な気がします。車で頂上付近まで一気に登った場合は、景色の綺麗さや雰囲気に感動する事はあっても、その度合いが弱く感じます。この行程をふんで山を登る経験をすると、霊山として山が信仰の対象となったり、修験者が山に篭ったりした事も分かる気がします。
 僕は修行が好きなわけでもないし、苦行大好き変態どM人間でもないですが、あの高揚感や生きている実感を感じにまた山登りしたいなぁと思うのです。
 吹き抜ける風の香り、突然「キィッ」と鳴く鹿、林の中一人佇む静寂を感じに。

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