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抹茶ミルク7

大学は楽しかった。おふくろは入学金と1年生の前期の授業料しか用意できないことを詫びてきたが、俺は大学でも好成績を取って国や大学の奨学金を勝ち取り、バイトをいくつか掛け持ちして学費と生活費を工面することに成功した。クラスやサークルでも友人に恵まれ、イベントや旅行を楽しむ余裕さえできた。
俊は男子校に入学し、友達とバンドを組んでギターの練習に夢中だった。高校の学費だけならおふくろもなんとか支払えたのだ。

おやじは相変わらず行方知れずだったけれど、サラ金の取り立ては段々と数が減るようになっていった。そしておふくろもいつしか離婚の話をしなくなっていた。
ひょっとして、時間はかかっても、みんなもとに戻れるのかもしれないな、と、俺はすっかり楽観的になっていた。我が家の最大の金銭的なピンチは過ぎ去ったのだから。

バイトと勉強とサークルであっというまの4年間。大学を卒業した俺は、東証一部上場の通信販売の会社でダイレクトメールを製作することになった。
繁忙期は貫徹も当たり前というハードな職場だったが、バイト代とは比べ物にならない給料をもらえることで、辛さは喜びに変わった。おふくろに毎月5万の生活費を渡せるようにもなり、家の税金や公共料金の延滞もようやくなくなっていった。


そんなある日、おやじが帰ってきた。
前見た時よりもさらに痩せ、さらに小さくなったおやじの手は、遠目からでもぶるぶると震えている。おそらくアル中だ。白いものの目立つようになった髪はべったりと油染み、顔色は真っ黒で、白目は黄色く濁っている。そして近づいてよく見ると、手の甲にびっしりとカビらしきものが生えていた。
一体どんな生活をしたらこんな姿になってしまうのか。子供のころ知っていたおやじと、目の前にいる男が同一人物とはどうにも思えず、俺はいたたまれなくなり、バイトで俊のいない一人ぼっちの子供部屋に逃げ込んだ。

だが、1時間も立たないうちにおやじは家から出て行ってしまった。ちゃぶ台につっぷしているおふくろからようよう話を聞くと、金をもらいに来た、ということだった。
借金に追われる中、アル中がひどくなったおやじ。会社で働くこともできず、松村の自宅に間借りさせてもらい、毎日空き缶を拾って小銭を稼いで生活していた。しかし、松村がフィリピンの女性と再婚することになったため、おやじは出ていくことになったのだ。
住む場所がないなら、自宅に戻ればいいだろうに、それは男の沽券が許さないらしい。家があるんだから、帰ればいいじゃないか。…同性ながら、訳が分からない。

そしておふくろは、まとまった金を渡す代わりに、「離婚してほしい」と告げたのだ。
曲がりなりにもようやくやってきたまともな毎日。それをまたかき乱されるのは耐えられない。和志も就職し、俊も専門学校で資格を取った。
離婚しなかったのは子供たちが就職する際に不利になるのでは、という恐怖心からだった。それがほぼ解決したのに、あなたと一緒にまた生活する気にはなれない…。

そう伝えると、おやじは「わかった。離婚届は今度郵送する」と告げて、金を受け取るとあっさり自宅を去った。今までは帰ってこないことをみずから選択していたが、今夜から、ここは帰ってこられない場所になる。

「さよなら、おやじ」
パパとかお父さんと呼んでいた頃の記憶しかない俺が、この晩はじめてあの人を「おやじ」と呼んだ。
血がつながっている限り、俺とおやじのきずなは切れない。でも、きずなの形があのころと決定的に変わってしまったことを、俺は自分自身にわからせたかった。

離婚届はそれから数日して届いた。手紙の一つもついてなく、片側の埋まった届け出用紙だけが入っていた。
季節は巡り、冬の足音が聞こえていた。

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