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「居場所がない」とは?

私は「居場所」を居心地の良い場所と定義しています。

コトバンク引用
1 人などがいるところ。いどころ。
2 その人が心を休めたり、活躍したりできる環境。

世間一般的な居場所の定義と大きなズレはなさそうです。1は、公園でもスーパーでも夜の街でも、とにかくどこかに存在していれば当てはまるということで、「居場所がない」という状態は存在しないのでしょうか?それとも1と2に当てはまった時に初めてその人にとっての居場所となるのでしょうか?〇〇です!と断言することはできない疑問形にしてみましたが恐らくどちらも必要で、多くの人は2の、心を休めたり活躍できる環境がないことを「居場所がない」という言葉で表現しているのだと思います。

居場所ってその人の心が決める?

居場所づくりのプラットフォーム エートスを始めたことにより、居場所に関する情報をより一層、意識的に目にする機会が増え、こんなことを考えるようになりました。「居場所があるかないかはその人の心の状態次第なのではないか?つまりあるないの問題ではなく感じられるか感じられないかの問題なのではないか。と。」

あの時の私だったら

居場所がなかった(感じることができなかった)時の私が寄り添おうとしてくれる人に「居場所のあるかないかはその人の心の状態次第だよ」と言われると、ただでさえ毎日自責の念に駆られており誰に何を言われてもマイナスな言葉に変換しては苦しんでいた為、ものすごく嫌で辛くて悲しい思いをすると思います。一方で「居場所は感じられるか感じられないかだよ」なら「あっそ」と受け流すことぐらいならできそうです。同じような意味なのに不思議なものです。それぐらい心というものは敏感で繊細で難しいのだなと改めて感じています。

正しさは存在しない

支援という言葉に抵抗感を覚える人も少なくはない為ここではあえて「人との関わり方」という言葉を使います。人との関わり方に正しさは存在しないと考えています。「〇〇な傾向にある人に対して〜な分析をした上で〇〇なように関わればいい」など、教科書にあるような一筋縄にはいかないのが現実です。互いに支える、支えられるの関係性の中で傷つける、傷つけられることは必ずあります。こんなふうに関われば傷つけ合うことは少なくなるかもしれない。良い方向に進めるかもしれないな。と手探りで取り組むしかないのではないでしょうか?そのような人との関わりの手助けとして心理学や福祉、社会学、人間学などは有効でしょう。しかし、それらの資格がない人に対して、人と関わる資格がないと無意識のうちにレッテルを貼る心の動きを否定したくなるというより、勿体無いなと感じるのが正直な思いです。

最後に

あくまでも、この文章全体の主語は「私」です。居場所についての今の思いを残しておこうと思い、ざーっと書いてみました。素人学生の戯言にお付き合いくださりありがとうございました。



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