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正義の矛先はどこに向いているのか?

最近、世の中の「正義の矛先」はどこに向いているんだろうか?と考えることが多い。

先輩編集者の藤本智士さんが紹介していた本『未知の力を開く! 桜井章一×夏越康文』をぱらぱらと読んでいたら、上記の言葉が目に飛び込んできた。

善意の池にボコボコ吹き出している悪…。

日々SNSに投げ込まれる正義で包んだ善意は、根っこに悪が潜んでいるかもしれない。炎上の道筋には必ず主観があり、そこに誤解や偏見が混じり込んでいる。だから事の全容を極力確認する。

インターネット歴が20年近いことも影響しているのだろうが、とにかくこのあたりの違和感はすべて疑う。癖といってもいい。拾い集めた言葉の数々は、河原の石ころようにただ眺めるだけだ。結論を見出すこともなく、淡々とあらゆる角度で眺めるよう心がける。7割方が「うーん、わからないな…」で終わることが多い。

ただ、コロナ以降は少し様子が違う。暴力的にぶん投げられる正義に強い違和感を覚えるようになった。みんな不安で、みんな焦りがある。自分だってそうだ。飛び込んでくる正義の量は増え続ける一方だし、色や形もさまざま。人間一人ひとりが持っている正義はどれも違うものだといっていい。

その正義を振りかざす矛先はどこに向いているのだろうか。そこに実態はあるのか。不安が高まって抽象的な概念に振りかざすしかないような虚無を感じてしまう。

正しさの矛先を見失った世界の倫理は危うい。いつ自分に襲いかかってくるのかもわからない。SNSの匿名アカウントの中には生身の人間が存在している。各々の事情を抱えて生きている。彼ら彼女らは実生活の不満に対して、正義の矛先を向けられているのだろうか。正すことの責任は決して軽くない。良かれと思った行動が相手に受け入れられなければおしまいだ。そこに実社会の人間関係の難しさが詰まっている。

もし自分に向けられる矛先を恐れ、グッと我慢しているのだとしたら。その強い不安が、実態を伴わないSNSの世界にスルッと変換されて正義の矛と化しているのだとしたら。

この状態は誰でも陥る可能性がある。良いも悪いもない。正義感の強い人が虚無を抱え、真っ黒な雲にむかって矛を突き刺す。その姿勢や仕草がSNSによって可視化されて、ただ気になっているだけの可能性は高い。それでも、表裏一体の正義と悪が複雑にうごめいている人間の機微は引き続き考えていきたいと思う。


1982年生まれ。全国47都道府県のローカル領域を編集している株式会社Huuuuの代表取締役。「ジモコロ」編集長、「Gyoppy!」監修、「Dooo」司会とかやってます。わからないことに編集で立ち向かうぞ!