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これまでの当たり前を疑おう、じゃないと前に進めない

常識や真実といった言葉の価値がゆるやかに下がっている気がしてならない。一体、なにをもって常識としているのか。なぜこんなにも一方的な真実を押し付ける人が増えたのか。

Aから見た常識や真実もあれば、Bから見た常識や真実もある。鏡合わせのような主観を同じ土俵に並べて、一括りに語ることの限界に達してきている。その大きな元凶はなんだろうか。

ひとつは「構造」だ。システムと言い換えても良い。目標を達成するためにはルールが必要となる。ルールを下地にした組織も欠かせない。人類が歴史的に積み上げた人間としての道徳観や倫理も大枠には存在するが、これらすべてを積み上げていった結果「構造」が生まれる。

おぎゃあおぎゃあと誕生した初期段階の「構造」は機能する。なぜなら新しいからだ。新しいとは根本的な課題に対して求められたもの。良い構造は求められた機能を果たし、社会の中で経済や暮らしを豊かにしてきたのだろう。だが、時代とともに良い構造であっても老朽化を起こす。ひび割れて、悪意が漏れる。保身で補修し、外から見えないように隠す。気づけば悪い構造に陥ってしまう。

社会的に求められた構造は信用が高い。働く人たちには安定した待遇を提供する。近代でいえば終身雇用の甘い汁で構造はベタベタに溶けている。もしこの老朽化した悪い構造の中に居続けた人間はどうなるだろうか。外の価値観に触れず、補修工事に追われ、平等の名の下に責任転嫁ループの落とし穴を覗き続ける。”井の中の蛙大海を知らず”しらずの構造に取り込まれてしまった無自覚の矛盾した存在になるのではないか。

なぜなら、これまでの当たり前を疑わず、知らずしらずのうちに思考停止の檻に囲まれた世界で「これまでがこうだったから、これが正しい」を叫ぶはめになってしまう。厄介なのは、疑うことを知らないからだ。そして疑うきっかけが与えられないからだ。さらに最悪なのは、思い込みの正解に疲弊してきた人たちの感情が連鎖し続けてしまうこと。その空気は周囲に蔓延し、悪い構造の諦めをベースに労働が生まれしまう。

私は地球史の単位で、自然の形態から生命の誕生、動植物の進化、人類の発展、文化の向上まで。すべて「不安」が生んだ産物だと思っている。身体性でネアンデルタール人に劣っていたホモサピエンスは、弱さの不安から群れを作ったそうだ。群れが知恵を共有し、群れと群れの細い繋がりによって、種としての生存確率を上げる。

「もっとこうしたほうがいいんじゃない?」

人類史を大きく前進させた知恵は、こんな軽い投げかけであり、素直に受け取って実践した成果が積み重なったからこそだろう。市民はいつも唱えている。知識人はいつも訴えている。もっとこうしたほうがいいんじゃないか。ポジティブな不安はいつだって前向きな軌跡を残すと思って間違いない。

しかし、いくら知恵を投げかけても、ポジティブな不安を提言に変えても、大きな壁となって立ちはだかるのが悪い構造だ。誰がどう見てもボロボロに老朽化していて、自己研鑽と自己批判の芽が摘まれている。これまでの当たり前を疑えず、これからの不安に向き合うことができない。得意技は角を取って丸くすること、そして否が応でも働いてしまう悪い想像力。熟成して発酵した悪い構造は、腐った構造になる。腐った構造のなかで悪い不安を成長させたらどうなるだろうか? 

他者を信頼できず、自己責任を投げかけて、カビの生えた己の椅子に縛りつけられてしまう。

これが悪い構造の構造だ。おとぎ話のようなこの手の問題は、いまや当たり前の光景になっている。異を唱えることができず、経済合理性を盾にした妥協が諦めを生んでいる。全員が一斉になって当たり前を疑って、もっとこうすればいいんじゃない?を提言し、だれもが素直に受け止められる構造に推し進めたい。その場しのぎの合意形成と諦めのブルシットジョブには、邪王炎殺黒龍波をもてはやす中二病の精神構造をぶちかまそう。


1982年生まれ。全国47都道府県のローカル領域を編集している株式会社Huuuuの代表取締役。「ジモコロ」編集長、「Gyoppy!」監修、「Dooo」司会とかやってます。わからないことに編集で立ち向かうぞ!