[スター・ウォーズ]レイ三部作の問題意識と答え(3/3)

前の記事

スター・ウォーズのレイ三部作(シークエル・トリロジー)を解釈するシリーズの4つ目の記事である。

今まで、次のことを見てきた。

正しいことが分からず、未来を見通すこともできないならば、何が正しいか考える時間が十分にないならば、我々はいったい何をすればよいのか。先人たちをどう継げばよいのか。これが、レイ三部作の抱える問題意識である。
ルーカスの意志を継ぐためには、正しいことをするべきという価値観を捨てることはできない。しかし、何が正しいか分からないという現状を無視することもできない。

最後に、私が思うレイ三部作が出した答えを述べる。

2.5今自分にできることをする

物語内の主人公たちの行動原理でもあり、映画から透けて見える制作者の行動原理でもあるのが「今自分にできる最大限のことをするしかない」という価値観である。

この価値観は映画のいたる所で見られる。ここでは例として『スカイウォーカーの夜明け』でC-3POが記憶の消去を受け入れるシーンのセリフを引用する。

REY: You know the odds better than any of us. Do we have a choice? 確率計算は私たちの誰よりも得意でしょ。他に方法がある?
C-3PO: If this mission fails.... it was all for nothing. All we’ve done.... all this time. この任務が失敗したら…すべてが無に帰します。今までの苦労も…費やした時間も。
POE: What are you doing there, 3PO? 何をしている、C-3PO?
C-3PO: Taking one last look, sir.... at my friends. 最後に目に焼き付けているのです…友達の姿を。

C-3POが今できる最大限のことは、記憶と引き換えにウェイファインダーの情報を得ることである。C-3POはそれを自覚し、受け入れる。このシーンからは、今自分にできることをするしかないという価値観を読み取ることができる。

2.6形式的な答えにならざるを得ない

何が本当に正しいか分からない以上、今私たちにできることは、今私たちにできることだけだ。これは当たり前である。そして、それ故にあらゆる場面で成り立つ。

「今自分にできる最大限のこと」が具体的には何を指すのか述べていないことが重要である。具体的な正しさを提示するためには、特定の立場に立たなければならない。そのため、その具体的な正しさは普遍的ではない。

レイ三部作では、正しさの具体的な内容に踏み込まず、形式的な答えにとどめている。普遍的な答えを提示するためにはそうする他ない。

なお、レイ三部作で(おそらく)唯一提示されている具体的な正しさは、『最後のジェダイ』の「死んで英雄になるより生き残るべき」というものである。

しかし、一方で、ルークの英雄的な死が「安らかで意義のある」と肯定的に捉えられている。また続編の『スカイウォーカーの夜明け』ではこの価値観にまったく触れていない。このことから分かるのは、「死んで英雄になるより生き残るべき」という価値観は、普遍的な答えとして提示されているわけではないということである。あくまで、特定の場合にのみ正しいものにすぎない。

正しさの具体的な内容は、状況によって異なるのである。

2.7今できることをする、でいいのか

何が正しいか分からない状況で正しいことをするにはどうすればいいか。これに対するレイ三部作の答えは、今できる最大限のことをするというものだ。これは現実的な答えだろう。

しかし、この考え方にも課題はある。

正しいことが分からないという状況は、大まかに2つの問題を生む。一つは「正しいと思ってした行動が実は無駄かもしれないこと」、もう一つは「正しいと思ってした行動がかえって状況を悪化させるかもしれないこと」である。

前者の問題に限れば、今できる最大限のことをするべきという価値観は、倫理的な課題にぶつかることはない。今できる最大限のことは実は無駄かもしれない。しかし、だからとって何もしなかったところで状況はよくならない。成功する可能性が少しでも高いのなら、たとえ徒労に終わるかもしれないとしても、今できる最大限のことをするべきだ。この主張にはある種の妥当性があるだろう。

しかし後者の問題も考えれば、話は変わってくる。今自分ができる最大限のことをした結果、むしろ状況を悪化させてしまうことがある。これに対して「それは結果論である」と言い返すことはできるし、実際その通りだろう。しかし、このような形で正当化してしまってよいのだろうか。

かえって問題を生むことがある以上、この行動原理に従う際には、今できる最大限のことが必ずしも正しくないことを自覚すること、問題が起きたときには反省し次の行動に生かすこと、これらが求められる。
ここまで来ると、この価値観は「2.4困難の解決方法」で述べた考え方にかなり近づく。

レイ三部作には、今できる最大限のことが必ずしも正しくないという自覚が現れているだろうか。問題が起きたときに反省し、次の行動に生かしているだろうか。必ずしもそうではないと私は考える。

失敗を反省し、次の行動に生かしている例もある。
『最後のジェダイ』でのポーの描写はそれである。映画の前半で、ポーはスター・ドレッドノートの破壊を指揮し、結果として多くの死傷者を出した。ポーはこの失敗から、死者を多数出して目先の成果を上げるよりも、逃げて生き残る方がよいこともあると学んだ。そして、映画の最後のクレイトの戦いでは、スピーダーによる敵兵器の破壊を諦め、生存者を少しでも残すことを選んだ。

しかし、レイ三部作は、もっと大きな枠組みで捉えると、今できる最大限のことは正しいことだという考えから抜け出せていないと私は考える。レイ三部作、特に『スカイウォーカーの夜明け』は「正しいと思ってした行動が徒労に終わる」という問題に主に焦点を当て、「正しいと思ってした行動が状況を悪化させる」という問題には正面から向き合っていない。

そのため、物語内でファーストオーダーが実は正しいのかもしれないという疑問が出てくることはない。レジスタンスの行動は偽善かもしれないという疑問が出てくることもない。程度の差はあれ、やはり主人公たちは自分たちが正しいという考えを根拠なく信じているように見える。

2.8今できることをする制作陣

物語内で扱う問題が限定されているために、映画の登場人物たちは、今できる最大限のことは正しいことだという考えのままでいられる。しかし、制作者の直面した状況は、それとは対照的である。

上で述べたように、レイ三部作に対する期待は非常に多様だった。そのため、映画でどのようなことを表現しようとも、それを歓迎する人がいる一方で、強烈に批判する人も必ず出てくる。まさに、正しいと思ってした行動がかえって問題を生む状況である。

この状況に対する制作者たちの対処の仕方は、やはり今自分にできる最大限のことをすること、そしてそれが必ずしも正しくないことを自覚すること、問題が起きたときには反省し次の行動に生かすことである。

そのため、『フォースの覚醒』『最後のジェダイ』『スカイウォーカーの夜明け』に込められたメッセージはまったく異なる。その場その場でできる最大限のことが違うからである。

『フォースの覚醒』でのアプローチを絶対的なものとは考えずに、『最後のジェダイ』ではよりよいと思われるアプローチをとる。さらに『最後のジェダイ』でのアプローチを絶対的なものとは考えずに、『スカイウォーカーの夜明け』ではよりよいと思われるアプローチをとる。

三部作の設定、ストーリー、込められたメッセージは、当初の想定とはまったく異なる。レイ三部作に対する「物語に一貫性がない」という指摘は妥当だろう。ただし、それは必ずしもレイ三部作の批判にはならない。

はじめから「正解」の設定、ストーリー、メッセージが分かるのならば、確かに一貫した物語を作るべきだろう。しかし、レイ三部作の前提にあるのは、正しいことが分からず、未来が予想できないという状況である。何が正解かは終わってみなければ分からない(あるいは永遠に分からない)。このような状況で当初考えていた物語を突き通すことは、効果的とは限らない。

スター・ウォーズ制作の権限は、ディズニー上層部(あるいはルーカスフィルム社長のキャスリーン・ケネディ)が握っている。映画監督の目指す方向性がディズニーの想定と合わなければ、監督を降板させることができたし、実際に彼らの意向により制作陣が変わった作品は多い(『ハン・ソロ』やエピソードIX)。

そのようなディズニーが、なぜ三部作の途中で監督が設定やメッセージを変えることを許したのか。一貫した物語を作るよう強制することができたのにもかかわらず、である。おそらく彼らは上で述べた状況を認識していたのだろう。このような状況では当初の物語を突き通すよりも、その都度何が正しいか吟味し、修正を繰り返す方が有効である。だからこそ、監督にある程度大きな裁量を与えたのだろう。

『フォースの覚醒』『最後のジェダイ』『スカイウォーカーの夜明け』に込められたメッセージはまったく異なる。しかし、この異なるメッセージを通して、今できる最大限のことをするという一貫したメッセージが現れてくる。

絶対に正しいことは分からない。その場その時の正しさは、常に間違いを指摘されうる。しかし、間違いがあらわになるたびに、それを乗り越えるよう正しさを更新する過程そのものは、ある意味普遍的である。

ルーカスは普遍的な物語を目指したと上で述べた。
レイ三部作のそれぞれの映画で提示されているメッセージは普遍的ではない。しかし、その普遍的ではないメッセージの連なりを通して、その都度正しさが修正されるという普遍的な過程が提示されていると私は考える。

2.9守破離

最後に、いままであまり触れてこなかった、先人たちをどう継げばよいのかという問いを考える。
ここでの議論を通して、今できる最大限のこととは何か、もう少し具体的な内容が明らかになる。

まず、芸道や武道における「守破離」という概念を紹介する。

守破離とは、師の教えのとおりに型を守る「守」の段階、次に他流派の教えも取り入れ型を破る「破」の段階、最後に師から離れ独自の型を作る「離」の段階という3つの段階からなる一連の修行の過程を示したものである。

何事もまずは基本を身につけることが大切である。そのため、修行のはじめでは師の教えを守り、師を徹底的に模倣する。ある程度基本が身についたら、今度はあえて教えに反する。基本が身についている場合は、これは「型破り」となるが、そうでなければ「型無し」である。もとの教えに批判的に向き合うことで、これに含まれている間違いがあらわになる。また、もとの教えにはなかった新たな知見を取り入れる。最後に、今までの修行で得たものをもとに、自分独自の型を作り出す。

なお、守破離という過程は一回で終わるものではない。前の世代の型を、次の世代が守り、破り、離れ、新たな型をつくる。その次の世代はこの型を守り、破り、離れ、さらに新たな型をつくる。この過程を何度も繰り返す。自分がつくった新たな型は絶対に正しいものではなく、次の世代にとってはやがて離れるべきものである。

『フォースの覚醒』は「守」、『最後のジェダイ』は「破」、『スカイウォーカーの夜明け』は「離」である。これが私の考えである。レイ三部作を観た人は、おそらくこの考えに似た印象を受けたのではないかと思う。

ただし、レイ三部作の制作者が守破離という言葉を知っていた可能性は低い。また、はじめから守破離ないし守破離に類似した概念にもとづいてレイ三部作をつくったわけでもないだろう。

それではなぜ、レイ三部作の内容が守破離と一致するのか。それは、偉大な先人をもった我々に何ができるか、先人をどのように継ぐべきかという前提にある問いが共通しているからだと考える。問いが同じならば、似たような結論が出てもおかしくはない。

上で述べたように、レイ三部作で一貫しているのは、今自分にできることをするという価値観である。

『フォースの覚醒』を制作する時点で、制作者たちができる最大限のこととは何か。
彼らの答えは、ルーク三部作に忠実な物語を作ることだった。
オリジナリティーを前面に押し出すなら、スター・ウォーズの続編である必要がない。まずはスター・ウォーズらしさとは何かをつかむ必要があった。そのため、ルーカスが制作に関わらなくても、確かにスター・ウォーズだと納得してもらえるような、スター・ウォーズらしい作品を目指した。

『最後のジェダイ』を制作する時点で、制作者たちができる最大限のこととは何か。
彼らの答えは、スター・ウォーズのそもそもの根底を疑うことだった。
ただ過去作の模倣で終わるのなら、新たに作品を作った意味がない。それでは、過去作を超えるにはどうすればよいか。過去作の何を超えればよいのか。それを明らかにする方法として、彼らは過去作を徹底的に否定することにした。絶対的だと思われているものを徹底的に疑うことで、何が重要で何がそうでないか明らかにしようとした。

『スカイウォーカーの夜明け』を制作する時点で、制作者たちができる最大限のこととは何か。
彼らの答えは、過去作すべての総決算をすることだった。
『最後のジェダイ』で徹底的に疑った結果間違いだと分かったものは、正しいと思われるものに置き換えた。また、徹底的に疑っても否定しきれないものを、改めて提示し直した。

守破離とは、レイ三部作において、今自分にできる最大限のことをすること、それが必ずしも正しくないことを自覚すること、問題が起きたときには反省し次の行動に生かすこと、これらを徹底することで得た答えである。
守破離という過程を通して、先人たちのしたことを盲目的に踏襲するのでもなく、ないがしろにするのでもないかたちで、彼らを継ごうとした。

守破離というのは修行の過程を表す概念である。修行を経て得た結論ではない。

完成度の高い作品を目指すのならば、結論を提示するべきだろう。それでは、なぜレイ三部作は結論ではなく、守破離という過程を描いたのか。それは、結論は絶対に正しいものではなく、やがて超えられるべきものだからである。守破離を経て得た結論は絶対的なものでなく、新たにまた守破離を経て修正される。普遍的なのはむしろ守破離という過程そのものである。

普遍的な物語を作ることが困難な現代において、レイ三部作は学びの過程というひとつ上の次元にある普遍を描くことでこれに対処した。


※守破離という言葉がもつ微妙なニュアンスにはここでは立ち入らない。そのような細部には、武道や芸道に独自な要素が現れる。レイ三部作は武道や芸道の思想にもとづいたものではないから、興味があるのは大まかな枠組みだけである。

※『フォースの覚醒』が「守」たり得ていることと、『最後のジェダイ』が「破」たり得ていることは、多くの人が同意すると思う。しかし『スカイウォーカーの夜明け』が「離」たり得ているかは、判断が分かれるだろう。このことには注意する必要がある。

レイ三部作において守破離したものは具体的に何だろうか。これをこれから一つずつ見ていく。

まとめ

正しいことが分からず、未来を見通すこともできないならば、我々はいったい何をすればよいのか。先人たちをどう継げばよいのか。これがレイ三部作の問題意識である。

これに対するレイ三部作の答えは、今自分にできる最大限のことをすること、そしてそれが必ずしも正しくないことを自覚すること、問題が起きたときには反省し次の行動に生かすことである。

さらに、師の教えを守り、破り、離れるという「守破離」という過程を通して、先人たちを継ぐことである。

次の記事



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?